私にとって初めての戦争体験は(あやうく人生最後の体験になるところだったが)、自分の血と引き換えに買ったものだった。その体験のクライマックスは、はるかなカンボジアの谷間で、ヤシの木々に飛び散る人間のおびただしい血と肉片で彩られた。
私は24歳で、怒りと情熱に血をたぎらせた貧乏なフリーのカメラマンだった。気高く勇気ある人々に刺激を受けて夢を抱いた私は、89年の乾季の始めに、タイの首都バンコクのモーチット・バスステーションから急行バスの屋根の上に乗り込み、カンボジアとの国境に近いアランヤプラテートというみすぼらしい町に向かって255キロの道のりを進んだ。
私たちが「アラン」と呼んでいたその町は、スパイや看護婦、武器商人、ゲリラ、娼婦、放浪者、詐欺師などあらゆる人々でごった返していた。私はカンボジアを占領していたベトナム軍との戦いに向かうカンボジアのレジスタンスのグループの一つと落ち合うことになっていた。
バスの屋根の上でダッフルバッグに座ってカメラを抱え、私はこれから始まる旅に胸を躍らせていた。ポケットには500バーツ(約20ドル)入っていた。タイ赤十字社の血液バンクで血を売って、看護婦から受け取った金だった。10日くらいは暮らしていける計算だ。
私はミニディスク・プレーヤーで、シンプル・マインズの「ビコ」を聴いていた。77年にアパルトヘイト(人種隔離政策)の南アフリカで警察の取調べにより拷問死した黒人解放運動家スティーブ・ビコをしのぶ歌だ。
排気ガスの充満したバンコクから緑豊かな田園風景の国境地帯に向けて、オープンエアの旅が始まった。私は同じ志を持って旅に出る友人ロバート・バーセルとネート・セイヤーと落ち合う約束をしていた。
「77年9月
ポートエリザベスの天気は晴れ
取調室619号は
いつと変わらぬ一日
おお、ビコよ、ビコよ......」
私たち3人は20代の前半から半ばで、キャリアも似たりよったりだった。つまり、キャリアなんてまだ何もなかったのだ。
正義感と野心に燃えた3人
信心深く、学者みたいな雰囲気のロバートはイギリス出身のフリーのジャーナリストで、ビルマ(ミャンマー)の取材に情熱を燃やしていたが、誰もそんな記事に関心を示さなかった。控えめで陽気で謙虚な男だった。髪は短くカットして、しゃれたイエズス会の修道士みたいな服を着ていた。貧乏なので、とても痩せていた。
アメリカ人の大男ネートは元スポーツ選手で、水泳選手みたいな体型をしていた。坊主頭で噛みタバコを噛み、いつもしわだらけのチノパンにTシャツ、ビーチサンダルといういでたちだった。AP通信の薄給の特派員で、国境地帯で取材に励んでいた。クメール語を学んでポル・ポトに会いたいと熱望していた。
アメリカ大使館で情報活動をする兄弟を持つネートは、ボストンの裕福な家の息子だった。マサチューセッツで政治家を志していた頃に、州知事のマイケル・デュカキスに「貧しい人たちを食い物にするな」と言ってやったこともある。政界は向いていないと悟り、ジャーナリストとしてアジアにやって来た。私とネートが何かやらかすのではないかと、ロバートはいつも気をもんでいた。
戦争に行くのに必要な資質があるのだろうか、と私は自問した。その勇気があるだろうか、それとも話にあるように、いざとなるとズボンの中にクソをもらしたりしてしまうのか。
後者でないといいのだが。なにしろ、ズボンといえば今履いているコンバットパンツしか持っていない(バンコクで滞在していたユースホステルのそばの店で仕立てたものだ)。安物だが、数週間前に自分の血を500cc売って買った。かっこよかったし、それらしく見えると思った。そのときはそれが大事なことだった。自信はなくても、それらしく見えると思ったのだ。
「天に昇る魂よ、魂よ
その男は死んだ、男は死んだ
夜眠ろうとすると
赤い夢ばかり見る
外の世界は白黒なのに
ただ一つの色は死
おお、ビコよ、ビコよ......」
バスの旅の間、生気にあふれ、目的への信念に満ちた気分だったことをよく覚えている。しかし、バスがタイの田園地帯を走り抜けて戦争地帯に近づくにつれて、失敗したり恥をかいたりするのではないかという不安が頭をもたげ、私の興奮に水をさすようになった。
まるで学生時代のラグビーの試合の前のようだった。全員が興奮し、燃え上がり、勝利の言葉を叫びながら、同時に心の中で屈辱的な敗北を恐れているような。
「蝋燭を吹き消すのは簡単だ
でも炎を消すことはできない
炎が一度燃え上がったら
風はますます高く炎をかき立てるだろう
おお、ビコよ、ビコよ......」
国境地帯でレジスタンスと合流
私はアランでバスを飛び降りると、荷物を引きずって売春宿に向かい、ロバートとネートに会った。部屋には窓がなく、むし暑くて他人のセックスのにおいがしたが、なにしろその宿は安かった。
カラオケは我慢できないほどうるさいし、大顔にタルカムパウダーを白く塗りたくった大足の田舎娘たちは見るに耐えないほど醜かったが、私たちの演じるシーンには最適の共演者だった。
ロバートとネートと私は、戦闘に向かう国境地帯のレジスタンスのグループに同行させてもらえないかと、何カ月も働き掛けていた。ネートは数週間前にトラックに乗っていて対戦車地雷に吹き飛ばされたことがあり、すでに戦争の「初体験」を済ませていた。ソビエト製のギアボックスの陰に座っていたおかげで命拾いしたようだ。ロバートと私は彼の体験が羨ましくてしかたがなかった。
翌日の午後、私たちはサムローと呼ばれる三輪車(長さ6メートルほどの車体の低い乗り物で、シボレーV8のエンジンを積んでいた)に乗り込んで売春宿を出発し、竹でできた家々の並ぶ小さな集落に着いた。カンボジアはすぐそこだが、まだタイの領土内だ。タイ軍の宿営する場所だった。
タイ軍は今回の作戦について短く説明した後、私たちをクメール人民民族解放戦線(KPNLF)に引き渡した。KPNLFの兵士たちは勇敢な裸足の難民で、指揮官は旧体制の腐敗した政治家たち(以前はカンボジアの共産党クメール・ルージュの敵だったが、今では彼らと同盟を結んでいる)の裕福な息子たちだった。指揮官のうち数人は、スキンヘッドのアメリカ人のグループと立ち話をしていた。
クロムめっきと赤で塗られた三輪車の中から、カメラを首に下げた私たちが気を張り詰め、礼儀のかけらもない様子で這い出すのを見ると、彼らアメリカ人アドバイザーたちは、さっと屋内に引っ込んでしまった。
(来週に続く)