アステイオン

知的ジャーナリズム

「業績」にならないのになぜ書き続けるのか?...書き手に覚悟が問われる「知的ジャーナリズム」を支える3つの条件

2024年08月26日(月)13時05分
玄田有史(東京大学社会科学研究所教授)

一方で、学術論文の執筆は、単著・共著にかかわらず、孤独な作業の連続である。懸命に書いても不採択になることが多く、掲載されても、引用どころか、誰からも関心を示されないのがほとんどだ。辛い現実に、研究自体が嫌になることすらある。

対照的に、IJの寄稿には編集者という力強い伴走者がいる。草稿に対し、ときに厳しくも的確なアドバイスをくれ、見違えるように内容がよくなることもある。

メジャーなIJへの掲載後は、地元の家族や親せきが自分事のように喜んで連絡してきてくれる(笑)。なによりたまにIJに寄稿することは、論文作成に疲れた頭をクールダウンさせ、リフレッシュの機会にもなる。

ただ、内容が素晴らしすぎて、大きな反響があると、いろいろと誘惑や色気が出てくるのは要注意だろう。ここで詳しくは書けないが、まともな学者の世界に戻れなく(戻らなく)なることもある。

反対に、多くの読者の目に触れることを意識して、内容が慎重になりすぎるのもどうかと思う。「大切なのはバランスです」といった曖昧かつ安易な表現で、自己防衛的に中途半端な締め括りをしている記述を見ると、破り捨てたくなる。IJに寄稿するときには、批判をおそれず、尖った内容を、覚悟をもって書かなければならないのだ。

③IJには、一部読者の実践が必要である。

紙媒体で刊行しているIJは長年にわたり構造的問題に直面してきた。なにしろ「売れない」のである。

不況で雑誌を購入する経済的余裕がなくなったこともあるし、オンライン上では日々、喧々諤々の議論が交わされており、ネットユーザーは無料で眺め、楽しむことができる。

わざわざお金を払ってまでIJを手に入れようという意欲は萎んでいくばかりである。伝統あるIJの読者は高齢者が大半で、発行部数もなんとか刊行を維持できる程度というのが如何ともしがたい現実だ。

しかし、読者数の減少は社会的影響に比例しない。フォロワーが多くても結局は仲間内の盛り上がりにすぎないSNSと違って、IJはそれが直接的に社会の仕組みを変えるきっかけになることもある。

私自身、2000年代に「若年無業者(ニート)」について発言をしてきた。本や論文を書いたりしたが、つまるところ、一番影響力があったのは、IJだった。とある論壇誌に寄稿してしばらく経ったある日、突然連絡があった。著名な衆議院議員の政策秘書からだった。

それから政党の研究会で話をしたり、当時多かった朝食会を兼ねた勉強会に呼ばれたりした。すると国会の予算委員会で「ニート」という言葉が初めて登場するなど、急速に知られるようになり、ニート対策を含む若年雇用対策も本格化していく。学術論文を書くだけで満足していたら、このような展開にはならなかっただろう。

以来、IJには政治家や官僚に近い人たちが少なからず関心を持っているという実感をずっと持っていた。

それらの人々は、来る選挙での勝利や予算の獲得などの実践を念頭に、つねに新しく、多くの関心が集まる話題を求めている。その他にもIJを目にした文化事業や教育関係の担当者から講演や協力の依頼を受けるのも、書き手冥利に尽きるものだ。

実践者にとって最も信頼できる情報源の一つであることは、今後もIJの生き残りの道であり続ける。そしてそのようなIJを支えるのは、今もこれからも良識ある読者諸氏であることは論を俟たないのである。


玄田有史(Yuji Genda)
経済学博士。専門は労働経済学。主な著書に『仕事のなかの曖昧な不安──揺れる若年の現在』(中央公論新社)、『希望のつくり方』(岩波書店)など。主な編著に『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』『仕事からみた「2020年」──結局、働き方は変わらなかったのか?』(ともに慶應義塾大学出版会)など。


asteion_20240520113411.png


 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス


(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)

PAGE TOP