テロ組織の公式SNSへ一般人がフランクに話しかけることもあれば、無辜の一般人へ中傷が1万件も届く。国家をアクターとした武力行使は90年代より落ち着いたかもしれないが、我々一人ひとりが石つぶてを握っているのだ。
こうして、インターネット紅衛兵に囲まれ、いつ自分が総括させられる番かと断頭台を数えつつ「知的ジャーナリズムの未来」について考えるのは絶望的ではあるが、それでも二つの役割は残されていると信じている。
ひとつめは、サバルタン──権力から周辺化され、自らについて語る力を奪われたグループ──の言葉を拾うことだ。自民党政権によって女性活躍が推進される中、「弱者男性」という新たなグループが〝発見〟されたのも誰かの光明ゆえである。
長らく日本社会で強い立場にあるとみなされてきた男性は、たとえ経済的・社会的・肉体的苦境に陥っても自己責任で片付けられ、支援を得づらい。たとえその苦しみを当事者が語ったところで、苦痛の存在すら認めてもらえない。
ガラスの天井を女性が破れない一方で、ガラスの地下室には男性が押し込められる。そのグループに新たな名詞を与え、理解者を増やそうと試みること。これは、棍棒としての教養を持つ人間にはできないことである。
2024年現在、もっともジャーナリスティックに活動している媒体は『週刊文春』である。週刊文春の報道がなければ、ジャニーズ事務所にも、宝塚歌劇団にも暴力は認められなかった。
つまり、かつて被害者はサバルタンとして、透明化されたままだった。ジャーナリズムには、事件を報道する役割だけが任されているのではない。その時代を生きる我々にとって、「何が事件であるか」を定義する責務がある。
ジャーナリズムに与えられたもうひとつの役割は、情報を誠実に検証することである。棍棒として使われる教養には、誠実さがない。相手を殴るためなら、ありもしないフーコーの新説を唱えてもいい。自分のファンがそう信じてくれるなら、陰謀論だって唱えて構わない。
だが、ジャーナリズムはそうではない。自分が中立である、正義であるとは信じない。自分が物知りだとすら思わない。
その代わりに、事実を積み上げる。証言者の話を地道に集め、共通項を洗い出し、信ぴょう性を検証する。利害関係のない複数の人間が、似た証言をしているのだからと、被害に真実相当性があると信じて報道する。
あるいは、インフルエンサーが心から真実だと信じ、語っている言葉であっても裏取りをし、ときには疑惑を投げかける。仕事がなくなるリスクを背負いながらも、権力者が疎外し、透明にしたがっている人々の話を聞く。
完全情報のニュースなど存在しえないが、事実を積み上げることでピースを埋めていく。それが、ジャーナリズムの善性であろう。
特に、『アステイオン』のような雑誌が生き残るならば、「教養ある人たちのユーモラスな同人誌」の枠を超えて、知的ジャーナリズムの手本たる存在となっていくしかあるまい。
vol.101
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