アステイオン

ジャーナリズム

SNSにおける教養は「人を殴るための棒」...民衆に殺される時代に「ジャーナリズムの未来」はあるのか?

2024年06月12日(水)09時00分
トイアンナ(恋愛・キャリア支援ライター)

だが、そのSNSにおいて教養とは、人を殴るための棒である。まず、誰かが知識をひけらかす。すぐに、別の誰かがそれを引用して「お前は物知らずだ。正しくはこうである」とやり返す。偉ぶった人間がピシャリとやられるとスカッとするから、投稿は一斉に拡散される。

当初の「誤った意見」を投稿した人間には、千を超す非難が投稿される。中世の公開処刑のように、みなそれを楽しむ。

教養は、いまや正しさを証明するための武器だ。偉人の文献は「私の方がソクラテスを理解している」「いや、誤読ですよ。何でソクラテスを読んだのに、そんなこともわからないんですか?」と殴り合うためにある。

その風潮を揶揄して「ポリコレ棒=ポリティカル・コレクトネスで他人をぶん殴る棒」というスラングまで生まれる始末だ。教養の効用のひとつに自分の考えに疑問を抱き、自己の内省を促すことが挙げられたが、今は逆である。そして、それに悪びれもしない。

今年、とある漫画家がSNSで交わされる激しい中傷に耐えかねて亡くなった。それについて、私が個人的な怒りをXで表明した。

なぜ、軽い気持ちで誹謗中傷ができるのか。ブラウン管に話しかけているわけでないし、相手にその言葉は届いてしまうのだぞ。画面の向こう側にいるのは、人間だというのに。といったコメントに対し、すぐ返事がついた。

「安全圏から石を投げるのは最高の娯楽だからしゃーない」

なるほど、その石とやらは、新約聖書で姦淫した女性に投げられる石と同じである。こいつはまいったね。人権意識が、中世超えて古代であられるか。

と、さんざん庶民の代表ぶって偉そうに書いてしまったが、私が端っこを陣取るジャーナリズムこそ、学閥の世界である。私や同輩も、出身大学は慶應やら早稲田やらと、いけ好かない大学の出だ。

彼ら・彼女らにすれば、私もまた「優雅に文章で善や美意識を語る富裕層」に見ているに違いないし、いつか「何かを誤読した罪」で殺されるのは、私であろう。

SNSの登場によって日本はゆるやかな文化大革命を迎え、架空の罪をでっちあげては、相手へ自己批判を強いる。かつては、糾弾する声と我々の間に編集部があり、我々を守ってくれた。

ITはその垣根を飛び越え、権威だろうが専門家だろうが関係なく、殺害予告をデリバリーする。今の世に太宰治や中原中也が生まれていたら、SNSでの百人組手に傷つき、20歳まで生きられなかっただろう。

振り返れば『アステイオン』創刊号で、高坂正堯先生はのっけから、「嫌な時代になって来た」と書かれている。粗野な正義観を源泉とした、武力行使に対する批判である。

それから38年、いまや個がそれぞれの正義観をもとに、暴力を振るうことのできる時代である。

PAGE TOP