とはいえ、実践するのはたやすくなかった。ほかの作業の時間を圧迫することもしばしばで、しだいに毎日記録を更新できなくなっていった。数日、時には1週間以上、記録がとだえることもあった。
そんななかで、ふと気づいたことがある。日々を構成する作業と時間のうち驚くほど多くの部分が、実はきたなさや乱れや不要物との物理的なかかわりに当てられていること、それ自体が重要な発見なのだ。
たとえば記録の重要な対象だった排泄や月経は、避けようもなく身体に起きる事柄である。抜けた体毛、排泄物、垢や体臭なども生きているかぎりとめどなく生み出され続ける。
これらを汚穢と見なすのであれば、汚穢は生そのものとも言える。
さらに、身体のにおいや分泌物、あるいは皮膚のかぶれやできものなどの生起と変化を継続的に見て・ふれて・嗅いで感じることは、目の前の身体や存在への愛着や、生体の不思議に対する感嘆にもつながっていた。
もちろん、自分自身を研究対象とするときには気をつけるべき側面もある。研究者本人に構造的に見えにくい事柄を記述・考察できないのだ。
わたしの行動が歴史的・地域的に(そしてあるいは社会階層的に)特異なものであることや、その清潔感覚が上下水道設備などの近代インフラに依存していることは、わたしの記録のみからは見えてこない。
しかし、自分の生活を分析することではじめて気づける事柄が確かにある。この研究においては、自分と他者の体をケアし体を休める環境を物理的につくっていく作業が、生の根幹にあるということだった。その多くは、通常「家事」として括られてきた作業なのだった。
ハンナ・アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1994年)における労働・仕事・活動に関する議論でも知られるように、生きる身体の維持にかかわる営みや作業は、古代から現在まで、人間を人間たらしめる重要な営みだとは考えられてこなかった。
それは下層の特定の属性や階級の人間に──あるいは今日であれば機械に──まかせておくべきものだったのだ。
vol.101
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