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経済史

世界的な経済力を誇る「都市国家シンガポール」のルーツは「イギリスの植民都市」という定説への疑問

2024年03月20日(水)09時55分
小林篤史(京都大学東南アジア地域研究研究所助教)

18世紀の東南アジアでは言語、文化、宗教の内的一貫性を持ったアイデンティティ形成が進むとともに、中国経済の発展に対応した商業拡大と、かつて繁栄したマラッカやバタビア(現ジャカルタ)の再勃興が起こったことを強調。

そして、この中国経済との連動で商業活性化した1740~1840年を「華人の世紀」と名付け、東南アジアの近代的経済発展は西洋植民地期以前のアジア域内における自律的な経済秩序の変容に起源があることを示唆した。まさに、近世から近代に渡る連続的な東南アジア商業の発展を提示したのである。

華人の世紀の最盛期に設立された貿易都市シンガポールは、イギリス東インド会社の貿易拠点であり、やはりインド産アヘンやイギリス工業品のアジア各地への中継流通拠点として発展していった。

しかしそれだけでなく、華人の世紀に特徴的な東南アジア産の多種多様な消費財(米、胡椒、森林海産物など)の流通も大きな重要性を持っていく。

その市場では、イギリス商人だけでなく、華人の世紀に東南アジアに進出した華人商人や、マレー諸島各地から到来するブギスやマレー人商人たちが活発な商取引を展開。こうして多彩な商品が多様なルーツを持つ商人たちによって、シンガポールを拠点に西欧からアジアにかけて流通していった。

つまり、19世紀初頭に設立されたイギリス植民地シンガポールは、それ以前の自律的な地域貿易拡大の流れをその経済基盤に組み込んだことで、東南アジアの貿易ハブとして台頭していったのだ。

さらには、19世紀末の西洋植民地期になると、シンガポールはその商品流通力を基盤に、植民地領域を超えて東南アジア各地の生産と消費をつなぐ域内交易のハブとしてさらに発展した(例えばタイの米がシンガポールを介してマレーシアの消費地に輸出された)。

こうして、東南アジア各地は植民地化により分割されながらも、地域経済としてはシンガポールをハブとする域内交易網によるつながりを保ちながら、近代世界経済との接触統合を進めていった。

このように東南アジア史の大きな歴史展開を背景に、当時のシンガポール社会経済を詳細に捉えると、現代につながる発展の起源は単にイギリスの植民地都市にとどまらず、東南アジア地域の長期に渡る商業発展の中に見出すことができる。

現代の東南アジア諸国のほとんどが、厳密には「国家」の起源を植民地時代までしか遡れない。各自がそのアイデンティティの歴史的ルーツをさらに遡って認識しようとするならば、国家という枠を超えた地域史がより強く意識され、求められる。

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