小津久足『桂窓一家言』(草稿) by 與右衛門-CC BY-SA 4.0 DEED
資料が大量に残る江戸時代を研究するには、まず一次資料の山に分け入り、書かれていることを正確に読みとって、そこから導き出される事実をコツコツと積み重ねて結論を出すという過程を経る。誰も見ていない資料を見て、誰もいっていないことをいう資料実証は、文献学的手法にもとづく古典学の醍醐味である。
中村幸彦は、江戸時代のことはなんでもわかります、といった。これは自分はなんでも知っているということではなく、正しい手続きで時間をかけて調べれば、江戸時代のことは大抵わかるという意味である。
一方、読書においては、資料や資料実証の論文にかぎって禁欲的に読む、ということはもちろんなく、専門外の専門書、あるいはもうすこしゆるやかに人文書というカテゴリーの本を好んで読んできた。
そしていつしか、人文学という枠組みで思考し、表現したいと考えるようになってきた。方法論はあくまで実証に拠りながら、出入り口を日本近世文学に限定せず、文学・歴史・思想をはじめとした人文学として考え、言葉を紡ぐことはできないだろうか。そんな思いが熾火(おきび)のようにくすぶっていた。
その答えは他でもない、江戸時代にあった。近代の専門分化を経る以前、前近代の江戸時代の学問はおのずと学際的であり、学芸と文芸、研究と創作が地続きで、ひとりの人間が多彩な顔を持つことはまったく珍しいことではない。
本書は、そんな江戸時代の重層性をあぶりだすべく、名称使い分けに着目し、各方面に拡散する興味を、いかにしてひとりの人格のなかで統べていたのかを知ろうとした試みである。そしてそれは、私自身の切実な問いでもあった。
小津久足は、諸道一致、鵺(ぬえ)学問もっともよし、と説いた。諸学を貪欲に学ぶことを制限しなくてもいい。ただ、諸学の積み上げてきた研究成果の上澄みをすくいとって小賢しくまとめるのではなく、方法論自体を学び、身につけ、文学に限定しない一次資料をみずから読み解く。これこそが、資料実証にもとづきながら人文学として思考・表現するための大切な手続きであった。
本書では、中野三敏の用いた「近世的」自我という熟さない言葉をあえて使って、いわゆる近代的自我とは似て非なる、しかし個性としかいいようのない江戸人の心性についても、考察をめぐらした。
その結果、いまだその鵺のしっぽをつかんだだけだけれども、おぼろげながらも姿が見えてきた。近世的自我の個は、個人ではなく家や共同体であって、その存立基盤のズレが、ともに個性を発露しながらも、近代以降とは異なる様相を呈する所以である。
江戸時代のことはなんでもわかるはず。これからも鵺学問につとめていきたい。
菱岡憲司(Kenji Hishioka)
1976年生まれ。九州大学大学院人文科学府博士後期課程単位修得退学。博士(文学)。有明工業高等専門学校准教授などを経て、現在、山口県立大学国際文化学部准教授。著書『小津久足の文事』(ぺりかん社)など。
ロバート キャンベル氏(早稲田大学特命教授)による選評はこちら
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