こうして保育をめぐる風景が一変することで、子育てを公共の事柄として大事にする態度が地域社会から消えてしまったと感じる。行政は待機児童対策でひたすら私立保育園を増やし、保護者は預けられればどうでもいいと思考停止する。
『「子育て」という政治』にはこんな一節がある。
「親が『預かってもらえるならどこでもいい』と言い切ると、預かる側は『預かればなんでもいい』という保育に堕ちていく。保育者と保護者は合わせ鏡なのだ。両者が常によい保育を求め合っていく中で、保育の質は向上していくものなのに、今は、それが下を向いている悪いスパイラルに陥っている状況だ」
深刻なのは保護者の無関心だ。「忙しい」「ムダ」「時代にそぐわない」などと言って、PTAや父母会叩きが一定の支持を集めている。
実際に解散したり、活動を縮小する父母会を数多く見てきた。しかし、こうしたシニカルな動きが加速すればするほど、地域の子育ての「質」は低下していく。
この『「子育て」という政治』は2014年の刊行だが、その後、国の政策課題は「待機児童」から「定員割れ」へと急旋回しつつある。
厚生労働省は「保育所の利用児童数のピークは2025年となる」としており、保育園がなくなる時代がまさに到来しつつあるのだ。この20年間の民営化のしわ寄せはこれから来ることになる。
船橋市では昨年度、初めての廃園が出た。そして、つい先日、株式会社が運営する私立保育園の事業譲渡が市の「子ども子育て会議」で淡々と処理された。
こちらが質問すると、保育士の雇用と児童は当面守られるという回答が担当課長からあった。学識者からも全国的によくあることとの発言が出た。しかし、譲渡で翻弄される一人ひとりに寄り添う配慮はそこにはなかった。
竹園公一朗(Koichiro Takesono)
1980年生。早稲田大学卒業。東京都立大学大学院修了。修士(政治学)。時事通信政治部を経て、白水社編集部。現在、編集部長代理。主な担当書に髙山裕二『トクヴィルの憂鬱』(サントリー学芸賞、渋沢・クローデル賞)、熊谷英人『フランス革命という鏡』(サントリー学芸賞)、岡奈津子『〈賄賂〉のある暮らし』(樫山純三賞)、柳愛林『トクヴィルと明治思想史』(吉野作造研究賞)、前田裕之『経済学の壁』(日経新聞年間ベスト経済書2位)他。
『「子育て」という政治:少子化なのになぜ待機児童が生まれるのか?』
猪熊弘子[著]
角川新書[刊]
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