しかし、母親への楔は解かれることになる。研究者たちは病に関与する遺伝子を探索していた。一家は自分たちの血液サンプルを差し出し、それが統合失調症の遺伝的研究に大きな発展をもたらした。
けれども、世界的に有名になったウェクスラー家と違うのは、これまでギャルヴィン家の名前が世に出されることはなかったことだ。それどころか家族は自分たちが研究の要になっていたとは露ほども知らなかったという。
本書で私が最も心を揺さぶられた箇所は、メアリーがなぜここまであからさまに家族について語ったか説明するところだった。彼女はあまりに悲惨に思える家族の歴史を恥ずかしいものと捉え、長年秘密にしてきた。しかし徐々に、自分たち家族の経験が、同じように苦しみを抱える他の人々の人生を良いものに変えうる物語になるかもしれないと思い至る。
隠れされていた一家の悲劇が、明るい場所に引っ張り出され、家族で共有され、そして社会と共有されていく。それは「なぜここまで書くのか」と2冊の本を読んで感じた疑問への答えでもあろう。
その後、武藤さんは私にとって「武藤先生」になった。東京大学の武藤研の門戸を叩き、修士号を取り、現在は博士課程に在籍している。
私の修士論文の研究テーマは「遺伝的リスクの告知と結婚・出産の意思決定──ハンチントン病を手がかりに」であった。遺伝的リスクが結婚や出産の意思決定にどう関わっていくのかについて、当事者にインタビュー調査した。
リスクを知ることと知らないこと、それを伝えることと秘密にしていること、正常と異常の違い、選ぶことと選ばないこと──。
そこにあるものを『ウェクスラー家の選択』と『統合失調症の一族』の2冊は問いかけたが、それは今は私自身の問いでもある。ノンフィクション作家として、研究を志す者として、そしてひとりの人間として、考え続けていきたいテーマとなった。
河合香織(Kaori Kawai)
1974年生まれ。神戸市外国語大学外国語学部ロシア学科卒業。主な著作に『セックスボランティア』(新潮社)、『ウスケボーイズ─日本ワインの革命児たち』(小学館、小学館ノンフィクション大賞)、『選べなかった命─出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋、大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議』(岩波書店)、『母は死ねない』(筑摩書房)など。
『ウェクスラー家の選択──遺伝子診断と向き合った家族』
アリス・ウェクスラー[著]
武藤香織/額賀淑郎 [訳]
新潮社[刊]
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『統合失調症の一族──遺伝か、環境か』
ロバート・コルカー[著]柴田裕之 [訳]
早川書房[刊]
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特集:中華の拡散、中華の深化──「中国の夢」の歴史的展望
公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
CCCメディアハウス[刊]
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vol.101
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