結局、ウェクスラー家の人たちは検査を受けることを選ばない。そして、「知らないでいる権利」という新たな概念を導き出す。知る権利があれば、一方で、知らないでいる権利もあるのだ。
検査を受けない人たちは真実や事実から逃げているのでもなく、責任逃れをしているわけでもない。検査を受ける人もいれば、検査を受けないことを理性的で現実的な選択だと考える人もいる。この概念は、検査は誰のものかという倫理的な課題への答えに風穴を開けたとも言える。
本書を魅力的にしているのは、そこだけでは終わらないことだ。ハンチントン病も遺伝性疾患も関係ない、母の生きたその軌跡を描きたいと願う娘の思いが煌(きら)めく。
母は、ハンチントン病や遺伝性疾患だけではない、もっと彩りに溢れた人生を送った。母が大学時代にキイロショウジョウバエの研究をしたこと、子どもが寝静まった夜中に父と庭でスケートをしたこと、けれども最愛の娘たちとは心からの会話をついにすることができなかったこと。
母の悲しみ、喜び、葛藤、希望を知りたいという叫びが頁から溢れ出す。母を知ることは、なぜ自分は生まれてきたのか、何のために生きるのかを知ることだという思いがこの本を支え、普遍的なものにした。
それにしても驚いたのは、著者の父の不倫や母が性犯罪に遭ったこと、自身の性的妄想など、きれい事だけではない家族のありのままの姿が本書では描かれていることだ。知的で美しく、すばらしい家族の姿だけ書くことだってできたはずだ。なぜ著者はここまで書いたのだろうか。
なぜここまで、と再び思った本が2022年9月に邦訳が刊行された『統合失調症の一族──遺伝か、環境か』(早川書房)である。綴られるのはある家族の姿だ。アメリカ・コロラド州のギャルヴィン家では、12人の子どものうち6人が統合失調症を発症した。
『ウェクスラー家の選択』は一家の長女が書いた本だったが、本書の著者はジャーナリスト、作家である。著者はこの一家の軌跡について、主に末娘のメアリーの視点から再構成する。
本の末尾には「情報源について」という頁があり、ギャルヴィン家全員と、その友人や近隣の人、教師、セラピストなど何十人もの人たちへの数百時間のインタビューに基づいており、創作した場面は一つもないと記される。このような断りを必要とするほどに、一家の心は仔細に再現され、それが卓越した構成力で描き出されている。
描かれる内容は、殺人、暴力、虐待など衝撃的だ。末娘のメアリーは兄から性的虐待を受け、兄をぐるぐる巻きにして火あぶりにすることを計画したこともあった。
この家族の歩みは、統合失調症についての研究の進展と交差する。長年、統合失調症を誘発する責任は母親にあると言われ、ギャルヴィン家の母親はその視線に苦しみ、その葛藤は子どもたちをさらに追い詰めていた。
vol.100
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