マルセルが挑んだのはフランス初となるジェット戦闘機の開発であった。英機のライセンス生産に始まったOuragan(ウーラガン/嵐、1949年初飛行)、ついでMystère(ミステール/神秘、1951年初飛行)も開発され、軍の採用となった。
何よりダッソーの飛躍を可能としたのは朝鮮戦争とアメリカのマーシャル・プランであった。朝鮮戦争によりヨーロッパは再軍備に舵を切り、ダッソーも大量発注を獲得した。
その資金はマーシャル・プランにより捻出され、これを基にして新型戦闘機Mirage(ミラージュ/蜃気楼)の開発が可能になった。ダッソーは国内の競合他社との開発競争を勝ち抜き、戦闘機製造の「ナショナル・チャンピオン」へと躍り出た。
②イスラエルとの蜜月
ダッソー躍進の一因は輸出の成功にあった。イスラエル、インドに続き、オーストラリア、南アフリカ、パキスタン、スイス、インド等、各国に輸出した。
その推進力となったのはイスラエルとの関係であった。イスラエルは50年代からダッソーに関心を示し、ベングリオン、モシェダヤン等大物政治家・軍人が、ダッソーとの関係強化に尽力した。そしてそれは一企業との関係を越えて、フランス─イスラエル両国間の外交蜜月時代の礎ともなった。
まず1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)において、イスラエル、フランス、イギリスは敗北した。イスラエル空軍は実戦で使用されたダッソーの戦闘機に興味を持ち、その助言・要望が開発に活用され、イスラエルからの発注が各世代のミラージュの生産を支えるようになる。
1967年の六日間戦争/第三次中東戦争では、ミラージュがイスラエルの勝利に貢献し、ここでダッソーとミラージュのイメージは強固に結びつけられ、世界に広まったのである。
③グローバルな兵器産業への展開と技術革新
しかしこの蜜月状態は六日間戦争終了後、突然終わりを迎えた。ド=ゴール大統領は武器禁輸措置を発動し、イスラエルへのミラージュの輸出を中止させた。これはイスラエルとの蜜月関係に終止符を打ち、アラブ諸国との友好関係へと対外政策をシフトさせるド=ゴール一流のパフォーマンスでもあった。その結果ダッソーは巨額の財政損失を被り、労働者の解雇さえ危惧された。
しかしダッソーはここで大きく転換を図った。イスラエル以外のあらゆる国への全方位的な輸出戦略を選択したのである。輸出はストップしたとはいえ、六日間戦争での実戦経験と勝利はグローバルな武器市場においてミラージュの評価を決定的なものとしていた。この後アルゼンチン、ブラジル、コロンビア等新たな市場を開拓し、ダッソーの輸出は一層拡大した。
vol.101
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