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国際政治

武器政商、それともフランス外交の立役者か──「ミラージュ戦闘機の生みの親」マルセル・ダッソー(中)

2022年10月11日(火)08時00分
上原良子(フェリス女学院大学国際交流学部教授)

60年代のダッソーは、拡大路線と共に多様な開発に挑戦していた。垂直離発着機や可変翼機、大型輸送機などの試作に加え、コンコルドの計画にも参加した。また民生機の分野でも成功を収め、パンナムさえ購入したMystère20、および中小型機のビジネスジェットFalconも人気を博した。

しかし70年代の不況と共に、この拡大路線も陰りを見せた。1971年と1973年の相次ぐドル切り下げにより、アメリカの企業は輸出に有利となった上、政府の手厚い支援を受けたため、ダッソーのみならずヨーロッパの航空機産業は競争力を喪失した。

こうした状況の中で、1974年にヨーロッパ諸国の次世代戦闘機開発をめぐって、Mirage F1は、アメリカのF16と競い合った。ダッソーはこの「世紀の市場」にて敗北した。アメリカと比較してダッソーのテクノロジーの遅れは明白で、フランス空軍の内部でさえ、アメリカ機を推奨する声が上がっていたのである(のち、この将官は更迭された)。

しかしマルセルは自伝のタイトル『タリスマン(魔除け・護符)』に象徴されるように、強運と情熱の人である。この敗北は結果的にダッソーに変化を促した。技術が高度化した時代において、多品種拡大路線は、ダッソーの企業規模では構造的に限界があった。そこで、中小国にとって安価で導入が容易で、しかも優れた性能を持つ小型のデルタ翼単発機に開発を絞るようになった。

また開発方法の見直しも進められた。ダッソーは常に顧客(特にフランス空軍)のニーズを把握し、技術開発にも貪欲であった。その研究開発費は国営のアエロスパシアルを遙かに凌いでいた(※2)。

フランスは多数のプロトタイプを作成し、その一部を製品化する開発スタイルを伝統としてきたが、技術が高度化した状況ではコスト増に耐えられなくなっていた。グローバルに展開しているとはいえフランスの一民間企業がアメリカの巨大企業といかにして競合しうるのか、難しい舵取りが求められた。

様々な技術革新に挑戦する中で、ダッソーはいち早くコンピュータによる設計を実現し、さらには生産管理にまで展開させた。1977年にダッソーが開発した3Dの設計ソフトCATIは、その後高い評価を獲得し、IBMやボーイングのみならず、メルセデス等の自動車業界においても採用された。ここから生まれたダッソー・システムズは今やダッソーを代表するもう1つの顔となっている。

そして1970年代に開発されたMirage2000はジスカール=デスタン大統領による積極的な輸出支援もあり、約半数がエジプト、インド、ペルー、カタール、ブラジル、UAE、ギリシャ等に輸出され大成功を収めることとなる。

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