ところが、1990年代半ばに行われたカリフォルニア大学バークレー校のデヴィッド・カード教授とプリンストン大学のアラン・クルーガー教授の一連の実証研究は、経済学の常識をひっくり返すほどのインパクトがあった。彼らが行った研究の結果、最低賃金の引き上げは雇用を減らさない、ということが明らかになったのだ。
その後も、数多くの実証研究が行われ、最低賃金の引き上げで、最低賃金以下の雇用は減っても、最低賃金とその周辺の雇用が増えるので、雇用への悪影響はほとんどないことが示されている。
この理由としては、最低賃金レベルで働いている人の多くは、様々な事情で住居の近くで働くことを希望しているので、実際には仕事の選択肢が非常に限られていることが影響していると考えられている。
1990年代半ば以前の経済学では、低賃金の仕事での労働市場が競争的だと考えられていたが、それは現実とは対応せず、むしろ世間での常識が現実を正しくとらえていたのだ。
貿易自由化についても最低賃金についても経済理論が間違っていたというよりは、労働市場がどの程度競争的だとみなすべきか、という点で、経済学者の間の常識が間違っていたということだ。
第2のタイプの経済学の常識と世間の常識のギャップは、経済学のかつての常識が世間の常識になったものだ。この特集で宇南山卓が「『低所得者』は『経済的弱者』なのか?」で紹介している消費税の逆進性の認識はその例だ。
逆進性とは、所得に対する税金の負担割合が低所得者ほど高くなるという現象である。低所得者の方が、所得のより多くを消費して貯蓄しないので、消費税は逆進性をもつと言われている。日本の高校の社会の教科書にも消費税には逆進性があることが問題だと明記されている。
しかし、現代の経済学では、消費税の逆進性は、豊かさを現在の所得だけで測るために、「そう見えるだけ」というのが常識である。ライフサイクル仮説という経済学の新しい常識では、人々の豊かさは、現在の所得というより、資産も含んだ今後の将来所得全体で測るべきだというものになっている。
その常識を前提にすれば、現在所得が低くても多くの消費をする人は、現在の資産が多いか、将来多くの所得を稼げると考えている人になる。こういう人たちを貧困世帯と呼んでいいのだろうか、というのが経済学者の共通理解だろう。
しかし、高校の社会の教科書には、このような経済学の考え方はいまだ紹介されていない。所得が低いことが貧しいことを表しているという話の方が直感的であるので、なかなかこの世間の常識を変更するのは難しい。しかし、少子高齢化社会での税・社会保障制度のありかたに影響するので、教科書の記述を変えるなど、世間の常識を変えていくことは重要だろう。
vol.101
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