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<個人が借金してまで買い物をすることは褒められないのに、国が借金をして景気をよくすることは正しいとすらされる。このような私たちの「常識」を疑うことで、改めて見えてくるものがある>
「50%の確率で100万円を支払うことになるが、50%の確率で100万円をもらえるかもしれない。あなたはこの賭けに乗りますか?」
この質問にあなたはどう答えるだろうか?
100万円を得られることより、100万円を失うことのリスクと打撃を想像しすぎる余り、この賭けには乗らない人が多いのではないだろうか。これは、まったく合理的な判断ではなさそうだが、とてもよく理解できる話だ。
人間が咄嗟に判断し、意思決定をしたりするときに、これまでの経験やイメージ、有利不利の判断の積み重ねを、それぞれが構築してきたものが活かされる。これを「ヒューリスティクス」と呼ぶ。何かを評価する時には基準を置いて判断する「アンカリング」や、特徴を捉えて認識する「代表性バイアス」、現状がよいと考える「現状維持バイアス」などを付加して、判断している。
そのため、100万円を払う苦痛がもらう喜びよりも、より分が悪いと判断すれば、先の賭けには乗らない。これは、端からお財布を無くしさえしなければ感情も動かなかったはずなのに、お財布が戻ってきた時に無上の喜びを感じたりする、のと似ている。
人間界にはこの種の判断が溢れている。同時に我々の生活における選択は、この種の判断で構築されていることが実は多いのであろう。
今回、アステイオンの特集「経済学の常識、世間の常識」にはこうした、「ああ、なるほど!」と思う仮説とその検証が次々と展開されて小気味いい。使っていなかった脳みその皴が少し増えるような快感(といいつつ、脳みその皴の多さと頭の良さは無関係だ、と言われているため、世間の常識の間違いがここにもあるのだが)がある。
しかも、いろいろ新しい疑問も湧いてくる。そもそも、何かを論じたときに、質問や疑問がないというのは、あるいは少なくとも賛成や反対といった感想さえないとすれば、それはその論じたものがつまらなかったということの代替指標のようなものだと私は考える。
読みながら、「じゃあ、これは?」「じゃあ、この場合は?」と思えるのは、論旨が明快であればこそ、だ。たとえば、次のようなもの。
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