アステイオン

国際政治

ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か──ウクライナ・アイデンティティ(中)

2022年04月18日(月)15時05分
アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)※アステイオン81より転載

Gwengoat-iStock.


<「ふたつのウクライナ」という定型句は差別的な含みも。ロシアがクリミアを併合した2014年の『アステイオン』81号の論考「ウクライナ・アイデンティティ――その多様性と雑種性(ハイブリディティ)」を3回に分けて全文転載する。>


※第1回:ロシア語とウクライナ語の間に明確な地理的境界線は存在しない――ウクライナ・アイデンティティ(上) より続く

ひとつの国民、多様な記憶

歴史はウクライナ内部の分断状況を理解する上で、死活的に重要である。ウクライナ語の話者にとって、ロシア帝国同様、共産主義はウクライナを衛星国の地位に追いやった外部の権力である。

ウクライナ人自身がロシア帝国とソ連の建設に積極的に参加したという問題は、せいぜい「特定の人民の献身と成果」を「ソ連帝国の悪」と併置することで対処されているにすぎない。

過去について新たに作られたイメージからソ連を完全に消去することは不可能だった。それは相当数の人民の態度のためで、彼らの意識ではソ連時代は、福祉、社会保障、そして安定を意味したからである。

歴史上、最も中心的な出来事――第二次世界大戦――の記憶は、ウクライナのなかで今も争いの種である。ウクライナの国家は「大祖国戦争」というソ連の物語を完全には捨てていない。

その一方で、非公式に存在してきたウクライナ民族主義者の反ソ地下運動の歴史を、公的な物語に統合しようとしてきた。

だが、彼らを祖国のために戦った退役軍人として認知したり、ウクライナ蜂起軍(1950年代初頭まで西ウクライナで活発だった、ヨーロッパで最大規模の非合法軍隊のひとつ)の名誉を回復しようとする国家レベルの試みはこれまでのところすべて失敗に終わり、この問題がソ連崩壊後の「永続的な」争点のひとつとなってきた。

また、ウクライナ蜂起軍の反ソ・反独作戦がウクライナ愛国主義の象徴であることを維持するためにも、ウクライナ蜂起軍の歴史の「暗い側面」を公に率直に認めることが重要だと説く歴史家もいたが、ウクライナ語話者の公的な議論では、ウクライナ蜂起軍のポーランド人やユダヤ人への暴力(訳注*)を無視したり、軽視したり、正当化したりしようとする態度が支配的であった(注2)。

有益な中道主義?

1990年代初頭以降のウクライナの政策を理解するには、その偶然性と多方向性を認識することが鍵となる。

ソ連崩壊後の政治エリートは、常にロシアに注意を払いつつ、国内の民族的、言語的、宗教的な紛争のいずれか、もしくはそれらの同時進行を引き起こさずに、ウクライナとウクライナのエリートをなんとか正統化しようとする戦略を模索してきた。

同時に、歴史やその「空白部分」に関する社会の関心は徐々に衰え、反体制的な色合いを失った。社会・経済的問題を背景に、1994年、独立後最初の大統領選挙が開かれ、テクノクラートだったレオニード・クチマ(Leonid Kuchma)が勝利した。

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