クチマ大統領は、ナショナリストと共産主義の両方の反対勢力を危険な急進主義と見なす「穏健派による権力簒奪」(usurping of the moderate position)を本質とする中道のあり方を切り拓いた。
彼の前向きのプログラムは、その場限りでお飾りのイデオロギー的決まり文句を混ぜつつ、安定と繁栄という「普遍的」価値を取り入れたものだった。この穏健な中道主義というイメージによって、彼は1999年の選挙で再び共産党の大統領候補に勝利したのである。
クチマのイデオロギー的な動きでもっとも論議を呼んだのが、「ウクライナのウクライナ化」と暫定的に呼ばれる計画が失敗だったと宣言したことであった。
クチマの声明に含まれる理念(それは非常に注意深く、曖昧に表現されている)は、ロシア語を使用したり、幾多のソ連的なアイデンティティに執着しても、ウクライナの政治に参加することを妨げないというものであり、それ以上詳しくは説明されなかった。
ロシア語の使用やソ連の文化的要素を受容しても、政治的にロシア志向であるとは見なされない、という考え方ははっきりとは説明されていないのである。
マッシモ・ダツェリオ(Massimo d'Azeglio)のイタリアについての有名な言葉を借りれば、「ウクライナが創られた今こそ、我々はウクライナ人を創造せねばならない」というわけである。
実際クチマは、政治的な国民(ネイション)の概念を前面に押し出そうとしてきた。だがそういった考え方の背景には、大きなスキャンダルが起こり、検閲が強化され、大統領がますます権威主義的な傾向を強めるという状況があり、その概念は公的な領域では発展できなかった。
クチマ大統領は欧州への統合(EU〔欧州連合〕へウクライナを接近させる政策)と、ロシアと良好な関係を保つ政策の間でバランスを保とうとした。彼の大統領二期目は、汚職スキャンダルやオリガルヒの強化、報道の自由を制限する試みなどが目立ってしまった。
オレンジ革命として知られる、2004年の大統領選挙の結果の不正操作に対する大衆による抗議行動は、知識人にとっても全く予想外で、ウクライナ社会にとって複雑な意味を孕んでいた。
平和的な抗議行動が目標を達成し、三度目の選挙(訳注**)が宣言され、反対派の親ヨーロッパで親民主主義の候補者ヴィクトル・ユシチェンコ(Viktor Yushchenko)が、親ロシア派候補のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(Viktor Yanukovych)を破った。
オレンジ革命の国際的な幅広い支持にもかかわらず、新政府はEUとNATOへの加盟の確実な見通しを得られず、ウクライナ内部の本格的な改革に着手することも出来なかった。
vol.101
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