■武田 今回の特集テーマの「アカデミック・ジャーナリズム」は、私自身が長年、定着させようと意図的に使ってきた言葉なのですが(笑)、第一印象はどうでしょうか?
■梯 『狂うひと』(新潮社、2016年)では、根拠となる資料を注で提示していく書き方を意識しました。私が書いてきたものの中では、アカデミズムの手法に寄せたものだったといえます。
それは連載媒体が『新潮』だったことにも関係があって、主人公である島尾ミホを研究する人がいつか読者の中から現れると思いました。国文学研究の資料として、のちに参照されることもありますし。ですから、ある程度リーダビリティを犠牲にして、どの資料をもとに結論を出したかを明確にしました。事実を扱う文芸であるノンフィクションは無限に訂正されていくべきであり、開かれた作品を書きたいと思ったからです。
大宅壮一ノンフィクション賞受賞者の河合香織さんは『選べなかった命』(文藝春秋、2018年)で出生前診断について書いた後に大学院に入って、テーマを深める勉強をされています。また、今号に「『アカデミ・ジャーナリズム』の試み」を寄せた大治朋子さんもジャーナリストとして第一線で活躍されている中で大学院に入り、そこで得た知を再びジャーナリズムに持っていかれています。
「アカデミック・ジャーナリズム」という言葉を聞いたとき、自分も含めて思い当たることがあり、アカデミズムとジャーナリズムが相互に乗り入れる時代なのだと思いました。
■武田 出典表記で根拠を示すことで、後から調べて検証できる可能性につながります。しかし、丁寧に注をつけると読みにくくなってしまうので、反証可能性とリーダビリティを両立する工夫は、ジャーナリズムが社会科学を目指す際の課題だと思います。山本さんは、「アカデミック・ジャーナリズム」という言葉の印象はいかがですか。
■山本 「アカデミック・ジャーナリズム」という言葉を初めて聞いたときは、アカデミア(大学)に所属している研究者が総合雑誌や新聞に書く実践のことだけを指すと思い込んでいました。
今、「リーダビリティ」という話がありましたが、アカデミズムの作法だけではジャーナリスティックなものは書けないでしょう。つまり、その人の研究の根幹にある一番面白い部分を、学術論文以外の方法で伝えていくことが、「アカデミック・ジャーナリズム」の実践だと理解しています。アカデミズムの側も、アカデミズムの外に読者を作る試みに、もう少し積極的であっても良いのかなとは思います。その意味で、新書や選書などの媒体の意義は大きいですね。
■梯 最初に小川さやかさんと伊藤亜紗さんのお名前を挙げましたが、知の訓練を積んだ人は世界の見方にひとつの軸を持っていて、それが新しい切り口を生んでいくのが面白い。専門知を持つ人たちがノンフィクションやジャーナリズムの世界を広げてくれると思います。
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