■梯 東さんの「数は諦める」という話ですが、東さんが主宰する「ゲンロン」水準の話を聞いたり、論文を読むための「知」は大学教育にあるのだと思います。もっと一般に開かれた中間のもの、つまりかつての論壇が今は難しくなっていると改めて思いました。
■山本 その「開かれた中間のもの」という点ですが、対談や座談会は重要ですね。先ほど対談「一人の読者から社会は変わる」と座談会「知のアリーナを支える」を今回の特集で面白かったものとして挙げました。読者としては論考よりも対談や鼎談のほうが議論に入りやすいですよね。論壇は「誰と誰が議論している」とかいう関係性も含めて、読者に受容されています。
本質的な問題ではないのかもしれませんが、こういう関係性から議論が生み出されているのだなというのを見せるというのは、昔から変わらない記者や編集者の仕事です。「ゲンロン」も「シノドス」も、人間関係が見える形でイベントをやっているのは、「壇」を見せて間口を広げることに自覚的だということでしょう。
■梯 確かに、そこで議論されていることがあまりよく理解できなくても、出てきた言葉や人の名前への憧れのようなものも手伝って、「ちょっと勉強してみようかな」ということが、若い人にはあるかもしれない。
■山本 そうなんですよ!
■武田 梯さんの作品はテキストの扱い方に関して非常に抑制的で、1つの資料だけで結論づけることは慎重に避けている印象があり、アカデミズムでも通用する部分があると思います。実際、方法論はかなりアカデミックですよね?
■梯 常識的なことを最低限は踏まえた上で資料に向き合っていますが、資料を扱うトレーニングは受けていません。自分の方法が学問的ではないと思うのは、資料検討と網羅性です。膨大な資料の中の1つが、ある日、光って見えて、いい資料を引き当てることがあるんです。アカデミズムではそのような勘に頼らず、網羅的に資料を見ていく必要がありますよね?
■山本 「光って見える」というのは一種のセンスでして、勉強だけでは身につかないものです。私の言葉でいうと「仮説を立てる力」と「資料によって仮説を柔軟に修正する力」ということになります。ノンフィクション作家は膨大な資料に当たる際の仮説の立て方が上手ですよね。内部に仮説があるから「光って見える」のではないかと推測します。
ジャーナリズムの方法論に関わることですが、小川さやかさんが「『専門知』を『臨床知』で乗り越える」でノンフィクションとジャーナリズムの接続について言及されていました。
例えば日記などの「エゴドキュメント」を資料とする「生活史」と言われる歴史記述や、市井の人たちのオーラルヒストリーも近年のアカデミズムの中で1つの潮流になっています。そこからも新しい書き手がもっと現れてくるのだろうと思いながら、小川さんの座談会を読みました。
■武田 梯さんはオーラルヒストリーについて、ノンフィクション作家としてどう考えられていますか?
■梯 どちらもインタビューですが、オーラルヒストリーにおいて対象者から聞いた話は、公人の歴史を残すための歴史資料で公共財ですよね。それに対して、ノンフィクション作家のインタビューは聞き手である「私」とその人の2人のものと考えています。取材相手と私の間で起こったインタビューという一回性の出来事を書くところにノンフィクションの作品性があり、それはジャーナリズムともまた違う点です。
■武田 ノンフィクションは作家性、「私」という書き手が担保されるということですね。
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