アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

高坂正堯の精神から何を学ぶか──アカデミズムとジャーナリズムの架橋

2021年12月27日(月)16時10分
山脇岳志(スマートニュース メディア研究所 研究主幹)

佐藤は推測だと断った上で、「高坂さんの『現実主義』なのかなあ、という気がするんですよね(笑)。世情の現実を反映するのは新聞よりテレビですから。国際政治学の研究の上で、世間と遊離したところで本や論文を書くのではなく、世間の空気を嗅ぎ取りつつ深めていきたい、という思いがあったのかもしれませんね」。

佐藤がテレビに出るのも、メディア史を研究する以上、世間の空気、メディアの空気を感じ取りたいからだという。

数を頼む『体制』に隠れず、個性を磨く

佐藤の95号への寄稿「『私』への懐疑に耐えた文明史家」に戻る。野田宣雄が「私的内面性」にこだわって文明論の思索を深めていく姿と、教え子である佐藤に漏らした言葉が重なり合い、心に沁みるエッセイである。京大教養学部教授だった野田を、法学部教授に招いたのは高坂だった。

エッセイは、野田の高坂に対する追悼文(『アステイオン』42号、1996年)と、それに対する佐藤の思いで締めくくられている。追悼文の一部をここに再録しよう。

「後に残った者が氏の業績から学ぶべきことは、政治学や歴史学といった学問においても、最後にものをいうのは、研究者自身の個性なのだ、ということである。そして、たとえ高坂氏ほどの才能と個性に恵まれていなくとも、われわれはそのことを自覚し、できるだけ自分の個性的なスタイルを展開するように心がけるべきである。数をたのむ『体制』や『学派』の蔭に隠れて、自分の才能と個性の貧困を偽ろうとすることほど、高坂氏の精神から遠いことはない。」

そう考えると、アカデミズムにおける評価を気にせず、テレビに出演すること自体が、高坂の「個性」であったろう。高坂は、当時主流だった左派系の学者やメディアからの批判を気にしなかったが、「まともな学者はテレビでコメンテーターをやるべきではない」という、アカデミズム内部の「数=空気」も気にしなかったわけである。

いま、ネット空間に玉石混交の情報があふれ返り、「公共性」の概念も揺らぐ中、ジャーナリスト、学者ともに大切にすべきなのは、この「個性」なのだと、筆者は思う。

95号の特集に登場する執筆者、座談会への登壇者からは、自らの頭で思考を組み立てる個性とこだわりが感じられ、そのことが特集の読み応えにつながっている。責任編集の武田徹・専修大教授に敬意を表したい。

マックス・ヴェーバーは「本当にすぐれたジャーナリストの仕事には、学者の仕事と少なくとも同等の『才能(ガイスト)』が要求される」と述べている。(『職業としての政治』)

「数」や「学派」を頼まず、個性を大切にするジャーナリストや学者が、検証された事実をもとに、より深く真実に迫る記事や本や論文を書こうとするなら、おそらく、その努力の本質は似通ってくる。そうしたアカデミック・ジャーナリズムの傑作が生まれたとき、作者の属性が学者であろうがジャーナリストであろうが、もはやどちらでも構わないのであろう。

山脇岳志(Takeshi Yamawaki)
1964年生まれ。京都大学法学部卒業。1986年、朝日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、論説委員、GLOBE編集長、アメリカ総局長などを経て退職。2020年から現職。京都大学経営管理大学院特命教授を兼務。著書に『日本銀行の深層』(講談社文庫)、『現代アメリカ政治とメディア』(編著、東洋経済新報社)など。近刊に『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』(編著、時事通信社) 。同書の編集で、メディアリテラシー分野のアカデミズムとジャーナリズムを繋ぐことを試みている。


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