アステイオン

家族

家族的非類似性

2020年03月27日(金)
今井亮一(東京大学大学院人文社会系研究科・現代文芸論研究室、 2014-15年度 鳥井フェロー)

もっとも、血縁による家族的類似がマイナスの意味を帯びる場合を先に挙げてみたように、育てた愛情によってこそ親子が似るという考えの負の側面を考えることも、難しくない。高学歴の親が子に受験などで過度な期待を押しつける教育虐待は、際たる例だろう。だが、トロブリアンドの文化を一種の鏡として照らせば、そもそも「家族は似ている」という考えをいいとか悪いとか云々するだけでは、まだ一面的な話だ。父親と似ているのはいい、母親と似ているのは悪い、という以外に――というか、もしかしたらそれ以上に――彼らの基本原則にあるのは、母方の親族と子供は似ていないが家族であるという意識のようだ。「家族は似ていない」、いわば家族的非類似性がここにはある。

「100年後の日本」を予想することは、つまるところ、「100年後の日本」が「今の日本」とどれだけ似ているか/いないかを考えることだと思う。いまゼロ歳の子供がいれば、100年後といえばその子の長い一生を考えるくらいのスパンだから、親子がどれだけ似ているかという話は案外遠くない。100年後の日本は今とほぼ「同じ身体」を有しているから、きっととても似ている。だが「同じ身体」を有しているだけだから、きっと全然似ていない。いやはや、100年後が今と似ているなんて、冒瀆もいいところじゃないか。トロブリアンドの社会ほどでなくとも、日本でも男性の育児参加は進むだろうし、ほかにも様々な変化を受けるに違いないから、100年後の日本は「よそもの」にこそ似ているはずだ。こうして似ていないからこそ、「100年後の日本」は「今の日本」と「家族」なのだと信じたい。

*引用はすべてB・マリノウスキー『新版 未開人の性生活』泉靖一・蒲生正男・島澄訳(新泉社、1999年)によった。

今井 亮一(いまい りょういち)
東京大学大学院人文社会系研究科・現代文芸論研究室
2014-15年度 鳥井フェロー


『アステイオン91』
 サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス 発行

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