ここで未来に想像を向ければ、例えば100年後、子供への遺伝子操作が解禁されていたとしたらどうだろう? 両親は子供へ受け継がれた遺伝子に対し、自分に似てほしいところは残し、似てほしくないところは改変するだろう。これが一般化したとき、「お母さん/お父さんにそっくりですね」という表現は素朴な褒め言葉になるだろうか? もしその「そっくり」な要素が両親にとって似てほしくなかった部分だったら......と、言いよどむことになるのではないか。いや、100年後程度であれば、遺伝子操作が高値もとい高嶺の花となった結果、親に似ていないことが経済的ステータスの誇示となる世界の方が現実的だろうか。
遺伝子操作はいささか突飛だとしても、第三者からの精子/卵子の提供による出産や、養子縁組の普及など、子供を得る方法はますます多様化していくはずである。こうして生物学的なつながりがない家族が増えた時、「家族は似ている」という言葉はどのような意味をもつのだろうか。
ところで、先述した通りトロブリアンドの慣習においては、「同じ身体」である母系との類似は「冒瀆」となる一方、実は父親との類似は自慢の種となる。彼らの社会では、子供を抱いたり膝に乗せたりしてあやす、背負う、洗う、母乳以外の食事を与える、といった仕事は父親の義務であり、子にとって父とは「愛情と保護のもとに自分を育ててくれた男」という存在らしい(ちなみに、だから「母に夫がいない者」は不幸とされる)。そんな父親たちにとっては、一緒にいる時間が長く、自分の手で食事を与えている子供は、自分に似るのがむしろ当然なのだ。ということは、これは私の憶測だが、母系との類似が「冒瀆」となるのは、それが父親からの愛情の不足を示唆するからかもしれない。
つまりトロブリアンド島民にとっては、生物学的な関係は家族の類似をもたらさず、世話をするといった社会的な関係からこそ類似が生まれる。そしてマリノウスキーによれば、父と子のあいだにはそれ故に「きわめて強い情緒的な紐帯が存在している」。ありていに言えば、血縁でつながっていることより、実際に「家族」としてつながっているからこそ家族は似ているのであり、感情面でもつながっているのだ。この点から敷衍すれば、「100年後の日本」で遺伝子的にはつながっていない家族が増えたとしても、「家族は似ている」という言葉はこの社会的・情緒的つながりを指す言葉として、やはり一種の自慢や褒め言葉として残っているかもしれない。ただ血縁があるというだけで「家族は似ている」とされるのも、考えてみれば不思議な話ではないか。
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