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2019年10月のコンサート(東京国際フォーラム)で薬師丸ひろ子は「守ってあげたい」を歌った。原曲よりキーを上げて朗々と。12月のクリスマスライブ(モーション・ブルー・ヨコハマ)で斉藤由貴は「a Happy New Year」を歌った。ハスキーに切々と。両方とも松任谷由実の1981年のアルバム『昨晩お会いしましょう』に収録されている。そして、僕は今、このアルバムをダウンロードして繰り返し聞いている。
ユーミンは「守ってあげたい」で、TBSの「ザ・ベストテン」に一度だけ出た。ニューミュージックの人が出演するのはすごく珍しいことだった。木曜日の夜は塾に通っていたから、テレビの前にラジカセをセットして、母親に何位かわからないけれど、この曲が紹介されたら録音ボタンを押してね、と頼んだ。塾から帰って聞いたカセットテープには、ちゃんと「守ってあげたい」が入っていたけれど、母親の食器を洗う音が大きすぎて歌詞が聞き取れず、そのデリカシーのなさに憤慨した。
もう40年近くも前のことである。
倍の80年ならどうだろうか。山田稔の『門司の幼少時代』(ぽかん編集室)は、1930年生まれ、御年90歳を迎える山田が記憶のなかの戦前の港町の日常を描く。波止場に人を見送りに行くときに着せられるよそゆきの服と丸い帽子。日曜日の昼に食べる配達されたばかりの食パン。トーストのうえでじわじわと溶けてゆくバターの小さなかたまり。でも、秋の午後には虚無僧も出現するし、母親の里へ行けばお婆さんはお歯黒をしている。海水浴場の沖には黒く大きな軍艦が通り過ぎる。そんななかで、子供たちは訳もなくけんかしたり仲良くなったりを繰り返す。何もかもが変わっているけれど、何も変わっていないのだ。
80年がそうなら、100年さかのぼることなど何でもないようだ。では未来はどうだろう。そもそも卒論が『源氏物語』だった人間の考えることだ。100年さかのぼっても変わらないなら、100年経っても何も変わらないと思いたがる。
でも、本当にそうなのだろうか。多和田葉子の『献灯使』で描かれたディストピアだってある。『献灯使』を読んだ時、僕は戦慄を覚えたのではなかったか。問題は変わらない部分ではなく、何もかも変わってしまうということなのだ。
どちらに思いたがるか、ということによって、過去も未来も大きく姿を変える。思いたがることは現実を見えなくする。自分が自分につく〈嘘〉だと言えるかもしれない。〈嘘〉は正しい現状認識を妨げる。
vol.101
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