一方の齋藤亜矢氏は、京都大学でチンパンジーの研究をされた後、東京藝術大学で博士号を取られた方で、現在は認知科学の視点から芸術についての研究を進めている。チンパンジーと発達段階の人間の子供の描く行為を比較していくことで、なぜ絵を描くのかという根源的な問いに迫る。チンパンジーも各個体で画風が異なり、誰の作品かを様式から弁別することができる。彼らは報酬のためではなく、楽しい、面白いという動機から絵を描くという。人間とは異なり、チンパンジーは自らの描線を何かに見立てるという視点を持たないため、具象を行うことはないそうだが、その作品は人間の抽象画家のそれのようである。
符号化、という言葉が印象的であった。何かを「伝える」「表現」には、表情や仕草、声、言葉、文字や図などがあり、一旦感じたものをこれらの表現として符号化し、それを通して受信者は解釈内容を得る。後者3つは人間のみが使用するもので、これによって我々の情報伝達は効率化し、社会は発展していった。しかしその利便性の影で抜け落ちたものがあり、それを再び拾い上げることができるのが「アート」の優れた点ではないかと齋藤氏は推測する。
筆者の専門は美術史、特に西欧中世の金細工作品だ。主たる作品は聖遺物容器で、これはキリスト教における聖遺物(聖人の遺体やその一部、聖人に関連した物品などで、神の力を地上に発現させるメディアとなるもの)を収める高度に宗教的なものである。筆者は常々、中世の人たちがこれらの作品に対して持った感覚を体験したいと願っている。伊藤氏が他の身体から世界を見たいと言うように、自分も中世人に「変身」してその感動を得てみたい。文献を渉猟し、作品の実見調査を重ねるに従って、片鱗のようなものを掴めたようであっても、それはやはり言葉による理解であり、ましてや信仰心を持たない身には作品を通じて神の荘厳を感じることは難しい。作品を前に熱狂する心は、美術史的・近代的な文脈でそれを賛美し興奮する歓喜であり、そこからの脱却は絶望的なように思われた。
しかしながら筆者は得難い体験をすることになる。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼である。スペインの北西部に位置するこの都市は、聖ヤコブの墓を擁し、その遺体つまり聖遺物にまみえるために中世以来多くの人がこの地への巡礼を行った。巡礼路上の芸術作品を見たい、そして中世人の歩いた道のりを同じく徒歩で追体験してみたいという願望のもと、「フランス人の道」を歩くことにした。時は8月半ば、40度を超えることもある灼熱の日差しの中、木陰もない巡礼路を1日30キロ近く歩くのは想像以上に苦しい体験だった。日の出前に起き、暗いうちから歩き出し、午後4時ごろにようやく1日のノルマの距離を終える。村の巡礼宿に空きがなければ、棒になった脚を引き摺って次の村まで行かなくてはならない。足は水ぶくれだらけ、毎朝靴を履くたびに涙が出るほど痛い。巡礼路は私有地や牧場の中も通るが、ある早朝には、ロバに太ももを噛まれまでした。苦難の道である。Wi-fiもない、パソコンもない。村々を歩いて巡る旅で、毎日小さな教会や礼拝堂を訪れていた筆者は、大都市レオンの大聖堂に辿り着いた際、衝撃を受けた。「こんな凄いものを人間が作れるはずがない、神の領域だ」。
vol.101
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