Paulina Kopijkowska-iStock.
美とは何か、と問われて、答えに窮さない者がはたしているだろうか。
いや、個人的に美しいと思う物、人、形、色、音、行為などを挙げることはもちろん簡単である。特定の分野において美しいとされているものの条件を列挙することも可能だ。しかし、美そのものは何かと突き詰めて考えてゆくと、どうしてもどこかの段階で « Je ne sais quoi »(いわく言い難いもの)の壁にぶつかってしまう。何かを美しいと感じるのは個人の感覚なのか、それとも本能なのか、社会的な刷り込みなのか、理性や倫理といかに兼ね合いがつくものなのか、何を・なぜ美しいと感じるのか......。頭に疑問符がいくつも浮かび、美というものがだんだん厄介で怪しげなものに思えてくる。ましてや20世紀前半に美術・文学を中心とする分野において「美」という価値観が根本的に覆されてしまったことを考え合わせると、美の価値を今なお真正面から信じることなど安易にはできないような気がしてくるのである。
しかし、そのように尻込みをする者を諫めるかのように、2019年11月、「『美』の探求は、人間の知にとってどのような位置を占めるのか」というきわめてクラシックな――しかしそれだけに挑戦的ともいえる――議題のサロンが大阪で開催された。報告者は美学者の瀧一郎氏。堂島サロンのホストの一人、猪木武徳氏からの度重なるラブコールによって実現した講演である。経済学、物理学、音楽など、多様な分野を専門とする十名ほどのゲスト・ホストたちの前で、瀧氏はじつに穏やかに、とはいえ隠しえない情熱をもって同報告を行ったのだが、その端正な報告の根底にあったのは、科学技術が目覚ましく発達し、AIのシンギュラリティーが迫る今こそ、美の探求が持つ意義を再考する必要があるのではないか、というひとりの文系学者の切迫した危機意識である。
瀧氏の報告はまず、西洋哲学において美の探求と発見がどのようになされてきたかを、ヘレニズム(古代ギリシャ)とヘブライズム(ユダヤ=キリスト教)の思想に遡って明らかにすることから始まった。
vol.101
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