SUNTORY FOUNDATION
1978年4月、私は中央公論社(現・中央公論新社)に入社しました。入社したら、まっさきに挨拶したいと念じていたのが、粕谷一希さん(元「中央公論」編集長)でした。雑誌「選択」に粕谷さんが連載していたコラムを読んで、編集の仕事に興味を覚えるようになったからです。
ところが、氏はほどなく、すれ違うようにして退社。アテの外れた私は、先輩編集者に案内され、粕谷さんを初めて雑司が谷のご自宅に訪ねます。
以来、「夜学」と称しては、しばしばお宅にお邪魔して、大先輩の “編集よもやま話” をたっぷり聞かせていただきます。そこには名だたる学者、評論家が同席することも多く、駆け出し編集者にとっては願ってもない “個人授業” になりました。
そんなある日、粕谷さんからお聞きしたのが、サントリー文化財団の話です。山崎正和さんに声をかけられ、財団の仕事を手伝うことになった、サントリー学芸賞が創設される、といった内容です。財団の中核をなすメンバーの名前を聞いて、溌剌とした「知」の息吹を感じました。
粕谷さんを誘った山崎さんの頭の中に、かつて中央公論社が定期的に開いていた「中公サロン」のイメージがあったという話は、ずいぶん後になって聞きました。1960年代半ば、日本の出版界全体が好景気にわいた頃です。執筆者を中心にしたいくつかの研究会や懇談会が催され、その一つが「中央公論」編集部を主体にして気鋭の論客を集めた中公サロンでした。山崎さんが回想しています*1。
<当時、粕谷さんは『中央公論』の編集次長でした。野心的、積極的な編集者で、若い新しい筆者を集めて、お互いにプライヴェートな討論に巻き込み、相互研鑽(けんさん)させようとしていました。社長は嶋中鵬二さんで、嶋中さんもそういうことに意義を認めている人でした。(略)
粕谷さんのグループには、いま覚えている人でいえば、永井陽之助さん、高坂正堯さん、萩原延壽(のぶとし)さんなど、何人かいました。そこに私が入れていただきました。要するにそれは酒を飲んで雑談する集まりです。これは私にとって非常に刺戟になったし、異分野を知るチャンスにもなりました。......この体験がいまのサントリー文化財団のサロンの原型になっています。>
vol.101
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