アステイオン

教育

大学の心臓を思い起こして──「文脈」の大切さ──

2017年06月30日(金)
奈倉有里(早稲田大学非常勤講師・2015、2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー)

質疑応答ではまず「日本の大学は自由の場になっているのか」「社会科学と人文科学の対話は可能か」という質問に対し、田島先生は「中世の大学もまた不自由で、権威主義で凝り固まっているところが絶えずあった。人文学とほかの諸科学との対話は可能だ。ある理論に帰依している人たちはその理論の盲点や文脈固定性に無自覚であることが比較的多い。そこを常に他からの刺激を受けることによって反省することができるのでは」と答えた。

ほかにも様々な質問があり、先生は大学における社交性の大切さをベンヤミンのベカントシャフトを例に説明された。彼自身、アーシャ・ラツィスから史的唯物論を、ブレヒトから現代演劇を学んでいた。これは晩年のモナドロジーにつながっていく。複数の観点を一方的に見るだけでなく、多観点、多様な観点としてそれを想像することを重視する立場だ。

また、レヴィ・ストロースの『パンセ・ソバージュ』については、同書のブリコラージュの手法はベンヤミンに似ているとの回答。テクストを完全なマテリアルには解体せず、別のテクストに組みなおす。文脈の組み換えの自由というのはこれに似ている。

現代芸術おいてこれをやったのがコラージュだ。芸術が完璧な技術で自然を再現するようになると、それに縛られて芸術家の自由がなくなった。コラージュに代表される現代美術は、偶然性によって画家の自由を復権した――これは現代芸術の知性であり、全体知・全体性というものに対する批判でもあった。

最後に田島先生は、「全体というものを知のなかに収めるという欲望における暴力性というものを見ないわけにはいかない」と語り、ご講義を終えられた。

12世紀のパリにおける大学の芽生えから現代美術までの多岐にわたるお話を、「文脈を読む」ことの重要さに焦点をあてて語られた今回の講義。人文学系の学問や芸術のそれぞれの時代の転機がいかに「文脈」に支えられ発展してきたかが鮮やかに切り取られ、目の前に繰り広げられる様には息をのんだ。講義を受けながら、私はモスクワの文学大学時代に受けた哲学の講義の熱狂を思い出していた。アレクサンドル・ジミン先生は、田島先生のおっしゃった「マルクス主義のテクストをどう読むかが一種の神学だった」ソヴィエトにおいて、ソクラテス以前の古代哲学を専門としていた。しかし近現代の哲学にも造詣が深く、私の在学した2000年代、ジミン先生の講義には徹底したテクスト解読に基づく「自由」があふれていた。現在のロシアで復権し権威化した「宗教」についても、現代の権威が提供する解釈を鵜呑みにするのではなく、歴史をふまえた別の文脈におけるテクストとして読めるものであることを、度々学生に示唆してくれた。

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