近代小説の出発点といわれるセルバンテスの『ドン・キホーテ』は、「文脈を読めない人」を焦点化することで文脈の大切さを描いている。ドン・キホーテは騎士道物語を信じ込み、テクストと現実との間にある文脈に気づかない。フローベールの『ボヴァリー夫人』も同じで、主人公は恋愛小説を信じ込み、砂をかむような現実に埋没していく。どちらも物語批判を中心テーマにしている。
バルザックに『モデスト・ミニヨン』という小説がある。主人公は地方の貧しい貴族の娘、モデスト・ミニヨンという文学少女だ。あるときモデストはパリにいるカナリという詩人にファンレターを書くが、彼は見向きもしない。かわりに秘書のラ・ブリエールが彼女の心情溢れる手紙に感銘を受けて返事を代筆し、二人の往復書簡は恋愛に発展する。しかし彼女の父が世界旅行で一旗揚げて大金持ちになって帰ってくると、彼女に求婚者がむらがる。カナリが「俺こそが本物」と名乗りあげ、高貴な身分の候補者も出てくる。三人に求婚されたモデストはどうしたらいいのか――。
彼女ははじめ「信じた相手は偽物だった、許せない」と考える。ラ・ブリエールは、本当は誠実なのにいちばん分が悪い。ここで「幻滅」という小説的主題が浮かびあがる。しかしモデスト・ミニヨンはそこから学ぶ。社交界を開き三人を比べ、結局はラ・ブリエールこそ自分の相手と気づく。このときの彼女の知恵――これこそ「文脈」を理解することだ。つまり文学部に行けばカナリみたいな男に騙されなくて済む。(会場笑)
ここで重要なのは、社交界で二体問題から多体問題への複雑化が起きていることだ。第三者が入ることで、「わたしとあなた」という単純な問題ではなくなり、それをテクストとして見るような別の観点が生まれる。モデストは夢をつぶされた体験をもとに、文学的教養を社交界の場で発揮する。これは彼女が新たな段階へと飛躍していることを意味する。
ここで強調したい――「文脈」と「文学」と「社交性」は、密接な関係にある。
樽の中で生活していたディオゲネスの前にアレクサンドル大王がきて「願いを叶えてやろう」と言うと、ディオゲネスは「そこをどいてください。日向ぼっこをしていたのに影になってしまったから」と返す。権力者は文脈を決定する権利があり、ここでは「臣下にご褒美をあたえる」という文脈を生じさせている。それを単純に拒否すると反逆になってしまうから、ディオゲネスは「影を作る人、作られた人」という文脈に置き換えたのだ。
vol.101
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