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タイ

日本人が草案したタイの刑法...「不敬罪」の有罪率がほぼ100%である背景とは?

2024年09月04日(水)11時00分
櫻田智恵(上智大学総合グローバル学部助教)
ワット・アルンに飾られたタイ国王と家族の肖像画

Andy Soloman-shutterstock


<不敬罪の検挙率が増加し、改正運動が続くタイ。1908年刑法の成立には日本人法学者が関わっていたが、「不敬罪」の適応には大きな違いが見られる理由について>


2024年5月14日、タイで不敬罪で勾留されていた28歳の女性が、ハンガーストライキの末亡くなった。

2020年から続く不敬罪を含む王室改革を求める運動のメインメンバーだった彼女の死は、各国の大使からの追悼メッセージが発出されるなどして大きく注目された。

彼女が訴えていたのは、不敬罪の疑いで勾留されている者の一時保釈を認めるべきだというものであった。彼女の根本的な主張は、被疑者となった者たちの基本的人権を守るべきだという点にあった。

不敬罪の疑いがかけられた場合、起訴前から不当な扱いを受けることがあることは、しばしば問題になってきた。

とはいえ、この「不敬罪」については、触れること自体がタブーであるとされてきたこともあって詳しい研究は少なく、また法の解釈も時代によって変動してきたことからタイ人研究者でも理解が難しい。

そんな中でこの不敬罪について真正面から向き合った研究がデイビッド・ストレックファスによる『Truth on Trial in Thailand: Defamation, treason, and lesè-majesté』(2011年、Routledge)である。

短命な憲法、長寿な法

タイは1932年以降立憲君主制を採っているが、憲法の平均生存年は5年程度だと言われている。つまり、憲法が頻繁に変わるのである(「恒久」憲法と呼ばれているが、それはもはや祈りに近い)。

政権交代のほとんどがクーデタで為されてきたタイでは、政権が変わるたびに新しい憲法が発布されてきた。一方で、刑法や民法といった法律は、改正されることはあるものの、かなり長生きである。

例えば、タイにおいて西洋的な刑法が成立したのは1908年で、これを基に1957年に改正刑法が施行され、現在も基本的にはこの規定が継続している。

あまり知られていないが、この1908年刑法の草案者は日本人である。政尾藤吉という愛媛県出身の法学博士(イェール大学)で、治外法権撤廃を目指していたタイから要請を受けた日本から派遣された。

そのため当時の日本とタイの刑法とは多くの共通点を有しており、不敬罪や扇動罪にも日本の旧刑法と類似する内容が多くみられる。しかしながら、その適用を見ていくと、両者が大きく異なっていることがわかる。

新井勉『大逆罪・内乱罪の研究』(批評社、2016年)などに詳しく述べられているように、日本においては、天皇の身体を害する罪を大逆罪、政治背景によってその運用に変動がみられる不敬罪、そして最も重要な「国家」を守るものとして刑法制定時に最も重視された内乱罪が存在する。

不敬罪の運用にあたっては、政治運動を規制する目的で運用されることが多かったという点で、タイと共通している。

しかしながら、法の制定過程や運用の背景を詳しく見ていくと、何をもって天皇の名誉を毀損したと判断するかがかなり難しく、この運用を見誤れば逆に天皇の尊厳を害し兼ねないという意見がかなり多かったことがわかる。

不敬罪の濫用は、人々を取り締まると同時に国家イデオロギーが危機に瀕していることを示すことに繋がるからである。

例えば、天皇や皇族の悪口を言ってその名誉を毀損したとして不敬罪が適用されたとすれば、皇室の名誉は一介の市民による悪口で毀損され得る程度のものであるという印象を与える可能性があり、むしろ神聖化の弊害になるのではないかと危惧されたのである。

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