アステイオン

対談

農耕開始から国家誕生までの4000年に何があったのか...デヴィッド・グレーバーの遺作『万物の黎明』の自然科学研究への影響

2024年08月07日(水)10時30分
小埜栄一郎+松田史生

小埜 遺伝学的なフレームで国家の進化は問いを立てられますが、国家規模の再現性実験を実行して検証することは困難です。

しかし、ヒト以外の生物群集の研究は参考になるかもしれません。共生や寄生など生物間相互作用の多様性を見ると、国家を維持するような、略奪や交易といった別のやり方を生むのはヒトに限らないからです。みな他者に依存して生きています。

それでも人間の強烈なところは、農耕技術の発明だけでなく、利己的な目的で家畜や作物そのものを品種改良したところです。これは急速な食料調達の集団拡大の基礎にもつながっています。私の研究材料である醸造用酵母の振る舞いを見ているとそう思います。人為選抜によって野生種と生理的に大きく異なっています。愛玩動物もそうですね。

松田 生物進化の側面からはどうでしょうか?

小埜 『万物の黎明』が人類史研究の標準的なアプローチなのか、それとも異端なのかを判断する術を持ち合わせていませんが、植物特化代謝を研究している身からすると強いシンパシーを感じます。

自然科学研究には「モデル」に対して「非モデル」という比較がかつてありました。最初に詳しく調べられたものが「モデル生物」で、それと共通するものが重要であるという視点です。先行する知見に縛られてモノを見てしまうという陥りがちな罠があります。

しかし、幅広く生物を調べていった結果、すべての生物がユニークであり、それぞれ異なっていることが分かってきました。これは「共通性の生物学」から「多様性の生物学」へのパラダイムシフトです。

共通することが大事なのではなく、生物の生き様・生存戦略を規定するのは他者(種)との違いにこそ宿るという認識です。「例外なく例外があることが普通である」と。国家や文化の起源や多様性も同様であると理解しました。

意図されていない偶然が、その後に起こったことに対しては必然(前提)であったという、連続的な因果における「偶発性」と「必然性」は、国家の発生にも多分に介在していると、私は解釈しました。

松田 進化論の領域ではでグールドがまさしく『ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語』(1)(早川書房)でその話題を取り扱っています。

約5億年前のカンブリア紀には、現在の生物の祖先に加えて、全く構成原理の異なる生物が出現する大爆発が起きています。つまり、多細胞生物の多様性は最初が最大で、その後は狭い範囲で多様化していただけで、ヒトにつづく進化にも必然性があったとは言えないということです。

また、多細胞生物につながる真核細胞の進化過程では、「アーキア」という微生物の細胞内にバクテリアが取り込まれて共生していたことが確実視されています。しかし、全生物の歴史の中で一度しか起きていない。つまり特別な環境下で偶然起きたイベントの結果かもしれないということです。

多細胞生物への進化も偶然の産物だったのかの検証は、多くの研究者にとって熱いテーマです。しかし、「歴史にifはない」という通り、本当のところはやはり分からない、という点が面白いですよね。

小埜 生物進化を巻き戻すと別の生物が進化するいう、グールドの主張は「進化は一度きりの歴史である」という意味ではその通りだと思います。一方で、厳密な選択圧(淘汰圧)の中に同一の遺伝型や表現型を晒すと、定方向の進化が繰り返し観察されるケースも報告されています(2)。

ですから、「歴史が再現できない」というのは、厳密には「同じ環境は二度とあり得ない」という意味だと思います。しかし、今ある社会構造は必然ではなく、偶発的な要素が多分に含んで形成されているという点は大切な視点です。

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