これらの仮説では、総じて被害者は暴力と支配によって正常な判断能力を失っているとされ、被害者がしばしば語る加害者への愛は、「暴力と愛を混同」した誤った認識であるとされる。したがって被害者の主張を真に受けすぎないことが、〈第三者〉が取るべき態度だとされてきた。
とりわけ、被害者に生命の危機があるような場合には、本人の主張がどのようなものであれ、強制的な介入的措置──すなわち強制的に両者を分離させること──が是とされてきた。
この強制的な介入措置に多大なメリットがあり、多数の被害者を救ってきたことを著者は否定してはいない。加害者から分離させることで、「正気」を取り戻す被害者がいることも否定していない。
しかし、このような、被害者の意思を無化した上でなされる政策だけでは取りこぼされるものがあることを著者は訴える。
「どんな理由があれ、女性に暴力を振るう男性はクズである」という見解は社会に浸透しつつあり、たとえどんなに「良い人」であっても、ハラスメントや性加害を行なった瞬間、その「良い人」の部分は嘘であったとみなされる。さらには、善人の仮面をかぶったより悪質な人物と見なされることもあるだろう。
しかし、あたかも矛盾した問いとして聞こえるだろうが、「良い人」が「良い人」のまま、暴力を振るうことは決してないのだろうか。
被害者は、少なくとも〈第三者〉よりははるかに加害者と親密であり、長いつきあいがある。にもかかわらず、〈第三者〉はしばしば被害者よりも加害者のことをよく理解しており、被害者の考える「優しい」加害者像は嘘だと考える傾向がある。
正直なところ、話に聞く「優しい」加害者の「大半」はやはり「クズ」のような気が私にもするのだが、それを当人に伝えて本人の気持ちを否定することは慎むであろうし、私が自身の家族について、初めて会った〈第三者〉から一方的に非難されれば当然抵抗を覚えるだろう。
そのような当たり前のことがこれまで考慮だにされてこなかったのは、DV・虐待被害者がいかに主体性を剥奪され、その主張が無化されているかを物語っているように思われた。
被害者の一部の声を無化する〈第三者〉のあり方は、人は苦しみから逃れようとするものであり、暴力を振るわれればその相手に恐怖と嫌悪感を持つはずで、愛することなど有り得ないという社会通念を土台としている。
とするならば、暴力や支配を自ら望むマゾヒストの存在は、〈第三者〉の基本姿勢に対する根本的な批判になり得る。しかし同時に、広く暴力と支配についてこれまで展開されてきた批判、社会をより良きものにするためになされている議論の土台を根本的に脅かすような「危険」も秘めている。
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