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<国と国を行き来し、境界を編み変える人々の営為から「日本」を改めて考える>
今日では建築からファッション、メイク、ダンス、料理に至る、さまざまな文化領域で日本人が国際的に活躍している。そして、ひとたび海外に出れば、本人の意向がどうあれ、「日本人」として見られることになる。「日本人であること」や「日本文化」とどう向き合うか意識せざるを得なくなる。
もちろん、日本からの留学生や駐在員とて例外ではなかろう。私自身、アメリカの大学院留学時代には、私よりはるかに日本に詳しいアメリカ人に多く出会い、そのたびに肩身の狭い思いをした。
アメリカの学界での生存戦略を考え、日本研究や日系人研究を考えた時期もある。その半面、授業で「日本人の視点からコメントを」と求められるたびに「日本人の視点?!」と困惑する自分もいた。
周囲を見渡すと、アメリカ人に対してひたすら日本を蔑む日本人や、逆に、ひたすら日本を称える日本人もいた。「国籍や出身国など関係ない」と気丈に振る舞う者もいたが、むしろ日本を強く背負っているようにも思えた。境界を往還するとは実に悩ましい営為である。
人間は生まれ落ちた環境を意味づけ、その境界線を編み変えてゆく。とりわけ学問や芸術など学芸の醍醐味は境界線を意識的に見つめ直し、新たに切り拓いてゆく点にある。
その意味において、『アステイオン』99号特集の「境界を往還する芸術家たち」という表現はトートロジー(同義語反復)とも言える。絶えず境界を往還し続けるのが芸術家だからである。
本特集が注目するのはあくまで海外で活躍した日本の芸術家であり、彼(女)らが異国の地において、いかに「日本人であること」や「日本文化」と向き合い、創作活動に反映させていったかである。まさに「日本」をめぐる葛藤と格闘の証といえる。ページをめくると、ヨーロッパやアメリカ合衆国、中南米などからの興味深い事例が溢れている。
佐藤麻衣の「美術にみる太平洋戦争の影」によると、アメリカに移り住んだ日本人画家の場合、西海岸の芸術家は真珠湾攻撃(1941年)後の強制収容所生活を描くことが多かった。
それに対し、東海岸の日系人は退去を強いられることはなかったが、世界恐慌(1929年)を契機に労働運動や社会主義に共鳴し、反戦・反ファシズムの立場を先鋭化させていった芸術家も少なくなく、太平洋戦争時には日本の軍国主義に抗う立場を明確にした。
そうした画家の一人に石垣栄太郎がいるが、私は2023年秋に彼の故郷である和歌山県太地町を訪れる機会があった。捕鯨の是非をめぐり国際的に注目される同町だが、米西海岸へ多くの移民を送り出したことでも知られる。
とりわけロサンゼルス南部のサンペドロ地区にあるターミナル島には太地出身者がコミュニティを形成し、アメリカの缶詰産業の発展に大きく寄与した。その太地町には1991年に石垣記念館が創設されている。
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