また、逸脱を規制する「コード」(なすべきこととなすべきでないことの一覧表)が、ひろく万人の振る舞いと内面とを縛りつけ、世の中はキレイかもしれないが画一的になる。「善と悪との両義的な相互のもつれあい」などもはや認められないのだから、清く染めあげればそれでよいというわけだ。
注意してほしいのだが、テイラーは差別や暴力をやむをえない悪癖として許容せよとはいっていない。いうはずもない。それらはまちがっており、乗りこえねばならず、だからこそ、そうした悪との付きあい方に関して、現状には多大な問題があると嘆くのである。かれはほとんど声を震わせ、聖書にもこうあったはずではないかと訴える。「小麦と毒麦は非常に密接に織り交ぜられているがゆえに、後者は前者を傷つけることなしに刈り取ることはできない」と。
たしかに、そうなのかもしれない。これまで、多くの政治理論や社会運動は、何が正しいことなのかを考え、それをどう実現するかに苦心してきた。正義の声が封殺された社会の悲惨さを思えば、大事なことである。
とはいえ、正義の砲音は問題改善の第一着であれすべてではないし、そうした想定は悪に関する思考の貧困をもたらしかねない。すくなくとも、悪に対するはげしい憎悪と攻撃の姿勢を示すことが、善に対するコミットメントと連帯を証し立てるといったありようは、どこかいびつであり、ひとをときに当惑させる。
テイラーは、ある環境政党に関する私的な逸話を引いている。
タイから来た仏教徒である私の知人は、ドイツの緑の党を手短に訪ねた。彼はひどい当惑を告白した。彼は自分がこの政党の目標を理解していると考えていた。つまり、人々の間の平和や自然に向けられる人間の尊敬と友愛の姿勢といったものである。しかし、彼を驚愕させたのは、既成政党に向けられるあらゆる怒り、弾劾や憎悪の声色であった。これらの人たちは、自らの目標に達するための初めの一歩が、自分たち自身の怒りと攻撃性を鎮めることをともなうものでなくてはならないということを理解しているようには思われなかった。彼は、その人たちが何をしているのかを理解できなかった。(830頁)
こんなものは個人の感想にすぎないと、いってしまえばそれまでである。しかし、このように戸惑う個人がいることも、ひとつの重たい事実だろう。
vol.101
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