アメリカの切手になったチャールズ・リンドバーグ TonyBaggett-iStock
1927年5月、パリ郊外のブールジェ空港は異様な熱狂に包まれた。チャールズ・リンドバーグがニューヨークから初の大西洋横断に挑み、「サン・ルイの精神」号とともに、滑走路に無事着陸したのであった。
滑走路は冒険を称えるパリっ子の熱狂の渦に包まれた。この中にのちミラージュ戦闘機を生み出すマルセルがいた。マルセルもまた、リンドバーグの偉業に触発され、飛行機への思いを再燃させたのであった。
この少年はのちマルセル・ダッソーと名乗り、世界にミラージュ戦闘機を送り出すことになる。フランスはしばしば価値や規範といった理念の外交を掲げ、時として超大国への批判も躊躇しない国である。
しかし同時に世界第3位の武器輸出国として、超大国からの自立を望む国、また独裁国や地政学的に厳しい条件にある国々にも兵器を提供してきた。そこに黒い影を見る人も少なくない。マルセルはその中枢となる軍需産業を育て上げた。
しかしその人物像は多面性に満ちている。マルセルは穏やかで控えめな人柄であったというが、20世紀の激動とともに様々な苦難も経験している。裕福な家族に産まれるも、ユダヤ人として強制収容所の中で生と死の間を体験し、ファシズムと共産主義というイデオロギーの間を生き抜いた。そして国家と結託した武器商人として、ド=ゴールとミッテランとわたりあい、国家からの自律を守った。
また自らメディアを立ち上げ、論考を発表する一方、アイドル主演のコメディー映画『ラ・ブーム』を手掛け、各地でヒットさせるという顔も持つ(※1)。まさにあらゆる類型を超越した存在であり、自伝のタイトル『タリスマン(魔除け・護符)』に象徴されるように、強運と情熱の人であった。マルセルはなぜ強運を持ちえたのか。マルセルは何を目指したのであろうか。
マルセルは1892年パリのユダヤ系の家庭の第4子として生まれた。父はストラスブール生まれの医者であった。ストラスブールが位置するアルザス・ロレーヌ地方といえば、1870年代初頭、フランスが普仏戦争に敗北した後、ドイツに「割譲」され、ドイツとフランスとの間で揺れ動いた地域である。
マルセルの父も国籍の選択を迫られ、フランス人として生きることを選択し、パリに移住した。父が大切にしたのはフランスの共和主義への敬意と、愛国心を持って国家に奉仕することであった。ドレフュス事件後、ユダヤ系への差別と誹謗中傷が叫ばれる中でも、兄のダリウスはあえて職業軍人となることを選んだが、これは父の希望でもあった。
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