本書は厳密な学術研究なので、この政策の含意は複雑であり「良いか悪いか」の単純な結論は無いとしている。しかし、それが温かみのある政策だったという点は揺るがないように思う。
冒頭で、私は東側陣営がどういうものだったのかを肌で知ることができない時代に生まれた、と書いた。その空白に、本書は一つの具体的なイメージを投げ入れてくれる。社会主義は硬直的で非効率的だという紋切り型のイメージに反して、フィニーの研究を通じて知ることができる社会主義国家ベトナムの政策と社会の雰囲気は、柔軟で、温かみがある。
現在の日本では、新しい形の家族を持とうとする人たちが、その家族の幸福を第一に考えた政策によって十分に支援されているとは必ずしも言えない。
新しい家族の形を探るという似た動きがかつてのベトナムで既にあったこと、そして社会主義国家と強い儒教的伝統という文脈においてすら柔軟で理解のある人間的な対応が取られていたことを知れば、日本における現在の法的・行政的な対応は本当に精一杯のものなのだろうかと改めて考えさせられる。
本書は、ベトナム研究を専門とする人類学者が同業の専門家に向けて書いた研究書である。書かれた言語は英語で、主に英語圏の読者が想定されている。研究の一環でこれを手に取った私のような人を除けば、多くの日本人にとっては触れる機会が少ない書籍だろう。
しかし実際には、狭い専門分野にとどまらない、日本人にとって広く価値を持った本である。本書から得られるものとは何だろうか。それは、日本の問題意識を出発点にしてベトナムについて学びつつ、また逆にベトナムを起点として日本を顧みるという、いわば自と他の往還のような運動である。私はこの往還運動こそが良質な人類学的研究の持つ価値だと考えている。
【参考文献】
柘植あづみ2022『生殖技術と親になること──不妊治療と出生前検査がもたらす葛藤』みすず書房
藤田高成(Takanari Fujita)
東京大学教養学部卒業、ロンドン大学(SOAS)社会人類学科修士課程修了。現在はトロント大学人類学科博士課程に在籍し、ハノイにおいて社会主義思想に基づいて建てられた集合住宅の今日的な変容を研究している。過去に(独)国際協力機構にて政府開発援助、また(株)キズキにて教育福祉業務に従事した。論文にFujita, T. 2022. Hanoi's built materiality and the scales of anthropology: toward a theory of 'architectural facts.' Social Analysis 66 (1), 108-132。「モノとしての住宅と公共性:現代社会主義制下のハノイにおける公共住宅の物質的変容」にて、サントリー文化財団2020年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択
『シングルマザーと国家による抱擁──ベトナムにおける生殖の行為主体性』(Single Mothers and the State's Embrace: Reproductive Agency in Vietnam)
Harriet M. Phinney/University of Washington Press
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