地理的に言えば、ヨーロッパで最も広大な国であるウクライナは、世界で最も若い国のひとつである。その歴史を紐解けば、8-13世紀の古代キエフ・ルーシにまで遡る。
近代のベラルーシ、ロシア、ウクライナは、いずれもその起源は初期キエフ・ルーシにある。しかし、いずれの近代国家もその遺産を排他的に継承したとは言えない。
14世紀から、主としてウクライナ民族が定住した領域は、リトアニア大公国に属し、1569年からはポーランド・リトアニア大公国に属した。
1648-1654年のコサックの反乱、そして、18世紀末のポーランド・リトアニア大公国の領土分割の後、現在のウクライナの領土の大半がロシア帝国へと徐々に統合されていった。西ウクライナは1918年までオーストリア・ハンガリー帝国の一部に留まった。
20世紀初頭、ウクライナ民族の90%以上が農民で、ポーランドとロシアの国家計画のなかで、彼らは大ポーランド国民、あるいは大ロシア国民の一部として扱われた。
民族的アイデンティティを形成したのは、ロシア人やポーランド人のアイデンティティを拒否して、ウクライナ人を定義しようとした人々だった。
1917-1919年、幾つかのウクライナの国民国家の樹立が度々宣言されたが、いずれも成功せず、ウクライナの領土はソ連とポーランドの間で分割されてしまった。第二次大戦の間に、ソ連のなかで東西ウクライナは国境を統合されて登場した。
現在の国境線、ならびに現在の民族・社会構造を備えたソ連崩壊後のウクライナは、何よりソ連の政策の所産であった。その政策は、ウクライナの民族運動、外部の政治情勢、ソ連のシステムの性質に関してしばしば変更されるクレムリンの解釈などに対応した一連の反応や計画として出てきたものだった。
ソ連崩壊に伴って得られたウクライナの政治的独立を、何百万もの市民は経済問題の手っ取り早い解決策と捉えた。そうした期待は非現実的だったことが明らかになる。ウクライナは大規模な経済改革やエリート層の変革を経験することはなかった。
ウクライナの初代大統領、レオニード・クラフチュク(Leonid Kravchuk)(1991-1994)はソ連時代のウクライナ共産党の指導者のひとりだった。ソ連崩壊後のウクライナの統治階級では、こうした出自は一般的なものだった。
ウクライナはソ連時代の過去とシンボルをどのように扱うかという根本的な問題に取り組んできたが、それはソ連離脱後のアンビバレントな特徴を示している。何より、そうした取り組みは地方行政のレベルで行われており、その結果、イニシアティブの点で地域ごとに明確に異なっている。
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