とくに印象的に描かれるのは、ハルのストレートなアプローチに対して、それを意識しながらも無碍にしてしまうリクオの姿である。別に2人の相手を同時に好きになってしまったって良いのに、リクオはそれを選ばない。いや、選べない。どちらかと一歩進んだ関係に進もうとするその瞬間、もう1人の顔が浮かんで冷めてしまう。リクオは決して、2つの相手に同時に気持ちを向けることはできない。そう、彼は常に「1つのものしか視ることができない」のである。
よく考えてみれば、これは先の視覚体験とは似て非なる。ハルと榀子が横に並べば、リクオは両方を同時に「見る」ことはできる。しかし、単なる視覚機能としての「見る」だけではなく、気持ちがその相手に対して向いているという意味も込めた「視る」として考えてみると、私は両者に共通点を見出す。
リクオには、学生時代から片思いをしている榀子という相手がおり、彼女のことを「好きである」としている。これは当時の強い想いを、周囲から寄せられる期待が押し固めることによって形作られた、固定観念のようなものであることが読み取れる。
しかし、新しく彼の前に現れたハルという存在を、心の中では、「優しくされると嬉しいもんで、その面影をいつも追いかけてしまうのが、恋だと思ったりする」(11巻、249ページ)としながらも、頭の中では「防衛本能としてそういった不穏な感情は封印すべし」(同・251ページ)としている。
つまり、榀子のことを好きでないといけないというトップダウンで形成された気持ちがあるところに、ボトムアップで訴えかけるハルへの気持ちが叫び、それらが闘争している状態であると解釈できる。
「考えるのはここ(頭)なのに、どうしてココロはここ(胸)にあるって言うんだろう......(中略)......オレはさ、感情っていうのを表現するのが苦手なもんだから、ココロは自分の考え一つだと思ってた」(11巻、172ページ)という彼自身の台詞にも、これが直接的に示されている。
「好き」という主観的経験に対するトップダウンとボトムアップの処理について、神経科学の文脈で論じるには、この誌面はあまりに狭い。
ひとつ言えることがあるとすれば、『イエスタデイをうたって』というなんのことない漫画作品が、「私たちは、1つのものしか視ることができない」という視覚体験の特徴は、その一歩先の主観的経験に対しても成り立つものであるかもしれないというアイデアを、私に示してくれたということである。
他者のことを好きであるという気持ちを、2つの相手に対して同時に抱くことは可能だろうか。好きな相手が複数あっても、実は2つ以上の相手を同時に視ていることはないのかもしれない。
1つの「好き」という気持ちを生むために、トップダウンとボトムアップの処理はせめぎあう。好きの気持ちは両眼視野闘争のように揺れ動き、片方がまぶしいときには他方が意識されることすらない。そうかと思えば、突然もう片方の相手が脳裏に浮かび、それまで視ていた相手のことは視界から消えてしまう。複数の好きは両義的刺激のようにそこにあるが、そのときその瞬間に視えているのは常に片方だけである。
そうきっと、「私たちは、1つのものしか視ることができない」。
保子英之(Hideyuki Hoshi)
1990年生まれ。上智大学総合人間科学部心理学科卒業後、英ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ認知神経科学専攻にて修士号取得。ウィーン大学美術史学研究所、マックス・プランク経験美学研究所博士課程研究員フェローを経て、2018年より医療機器メーカーにて現職。企業で脳機能計測技術の研究開発を行う傍ら、社会医療法人北斗 北斗病院および大阪市立大学医学研究科に所属し、神経美学に関する研究を行う。主要研究テーマは、神経美学、視覚神経科学、脳イメージング技術、脳磁計、心理統計。「美的魅力を処理する神経メカニズムの脳磁計を用いた検討」にて、サントリー文化財団2019年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。
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