図1 顔はどれも気難しいが、手は雄弁に語っている。Dirck Jacobsz, A Group of Guardsmen, 1529
2020年の新型コロナウイルスの世界的流行以降、私たちの日々のコミュニケーションは一気にオンライン化が進んだ。ひどいときには、8時間近くパソコンの前に座りっぱなし、という日々を過ごすなかで、ふと気になったことがある。なぜ、WEB会議システムが映し出すユーザーの姿は、横長のフレームで切り取られているのだろう、と。
これは西洋絵画に親しんできた眼には、いささか奇異にうつる。なぜなら、西洋美術における肖像画は、圧倒的に縦長で描かれることのほうが多いからだ。『モナ・リザ』しかり、キリストに模したデューラーの『自画像』しかり......。人間の身体が縦長である以上、半身像であったとしても縦長の画面に描かれるほうが自然である。
考えられる理由は、現代の生活が、テレビ画面からYouTubeにいたるまで、横長のフレームにあふれている、ということである。とりわけテレビのニュースキャスターの姿は、WEB会議システムにうつる人々の姿のひとつの「お手本」になっているように思われる。
縦長と横長。些細な違いに思われるかもしれないが、これは案外コミュニケーションに大きな影響を及ぼしているのではないかと思う。その意味は、伝統的な肖像画を見れば一目瞭然である。そう、横長の場合には、縦長ならば入り込んでいた「手」が、画面の外に押し出されているのだ。
想像してもみてほしい。あのやわらかく重ねられた手が描かれていない、胸から上だけの『モナ・リザ』を。そっと衣服をおさえる細い指のない、顔だけのデューラーを。優劣はともあれ、それは少なくとももとの作品とはかなり違った作品になっていたはずである。
つまり、2020年以降のわれわれは、ひとことで言えば、横長のフレームに自らを収めることによって、圧倒的に「手を隠して」コミュニケーションをするようになったのである。物理的に対面していれば見えたはずの相手の手が、オンラインではときどきしか、あるいは全く、視界に入らない。
「オンラインコミュニケーションには身体性がない」などと言われることがあるが、その原因のひとつに、この「手の不在」があるのではないか。
コミュニケーションにとって手がもつ意味とは何なのだろう。手に注目した美術史家や批評家はたくさんいるが、中でも古典作品では美術史家アロイス・リーグルによる議論である。
リーグルは、その著作『オランダの集団肖像画』(1902)の中で、16-17世紀のオランダの集団肖像画について分析している。集団肖像画という世俗的な絵画の中で、物語に代わって画面にまとまりをもたらすものとリーグルが考えたのが「手」であった。
たとえば、ディルク・ヤコプスゾーンによる市民警備隊の集団肖像画(図1)。気難しそうな顔が列をなしてならべられている様子は、手の描写をのぞけば、現代のZOOM会議中のデスクトップそのものである。
具体的に見ていこう。まず、下の列の2人の男性が、マスケット砲と呼ばれる銃の銃身を手につかんでいることが分かる。これは、言うまでもなく彼らのアイデンティティを示すアトリビュート的な道具である。
一方、下の列の右から四番目の男、つまり日付のすぐ下にいる男は、まるで観者の注意をとらえようとしているかのように、手を伸ばしている。その彼をまわりの4人が指差しているが、このことから、この人物がこの一群のリーダーであることがわかる。
他方で、手すりのうえで手を休めているだけの人物もいる。リーグルによればしかし、これもまた身振りを否定することによって、「注意深さ」の表現になっている(1)。
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