アステイオン

美術

ウェブはなぜ「横長」なのか──オンラインコミュニケーションに身体性がない理由

2022年03月25日(金)16時50分
伊藤亜紗(東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長・リベラルアーツ研究教育院教授)※アステイオン95より転載

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図2 食事の光景なのに、みんな食べ物に無関心。Cornelis Anthonisz, Civic Guard Group Portrait, 1533

リーグルが注目するのは、これらの手が、個々の人物の内発的な動機によって動いているというより、外的な要請によっていわば「振り付けられて」いるように見えるということ、そしてその結果、手と顔のあいだに一種の分裂が生じているように見える、ということである。

頭部(意志)とは切り離されて、夢遊病者のように動き出す手。その手は、頭部のあずかりしらぬところで、鑑賞者に語りかけているかのようだ。

「人物たちの行為は決して自己充足的self-containedではなく、常にいわば2つの部分に分裂させられているように見え、その結果、活動している人物たちのそれぞれが、絵画の外にいる不可視のパートナーと相互に関わろうinteractingとしているように見える(2)」(図2)。

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図3 眠そうな顔とは対照的に、手には異様な存在感が。Gustave Courbet, Self-Portrait (Man with Leather Belt), 1846

こうした「遊離する手」は、19世紀以降の絵画にも見られる。アメリカの美術批評家・美術史家のマイケル・フリードが論じたのは、クールベの描く『革ベルトをした男』(1846、図3)の手だ。

モデルの顔はぼうっとしているのに、ベルトをつかむ手には異様に力が入っている。顔よりもむしろ手が語りかけてくるような、ぎょっとするほどの存在感。フリードはそこに、緊張を介して見る者を自らと一体化させるような「転移的な」欲望を見出す(3)。

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