リーグルが注目するのは、これらの手が、個々の人物の内発的な動機によって動いているというより、外的な要請によっていわば「振り付けられて」いるように見えるということ、そしてその結果、手と顔のあいだに一種の分裂が生じているように見える、ということである。
頭部(意志)とは切り離されて、夢遊病者のように動き出す手。その手は、頭部のあずかりしらぬところで、鑑賞者に語りかけているかのようだ。
「人物たちの行為は決して自己充足的self-containedではなく、常にいわば2つの部分に分裂させられているように見え、その結果、活動している人物たちのそれぞれが、絵画の外にいる不可視のパートナーと相互に関わろうinteractingとしているように見える(2)」(図2)。
こうした「遊離する手」は、19世紀以降の絵画にも見られる。アメリカの美術批評家・美術史家のマイケル・フリードが論じたのは、クールベの描く『革ベルトをした男』(1846、図3)の手だ。
モデルの顔はぼうっとしているのに、ベルトをつかむ手には異様に力が入っている。顔よりもむしろ手が語りかけてくるような、ぎょっとするほどの存在感。フリードはそこに、緊張を介して見る者を自らと一体化させるような「転移的な」欲望を見出す(3)。
vol.101
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