上の話が情報の発信者側の問題だとしたら、受信者側の問題もある。森田氏は自身の子育てを引き合いに出しつつ、理解における偶然と必然という要素も紹介していた。子供にとっては全てが偶然だから、もしかしたら宙で手を離したリンゴも落ちないかもしれない。しかしだんだん、これは絶対に落ちると必然化されていく。学習とは偶然を必然へ統合し、カオスを減らしていく作業だ。だが必然化が進むにつれ、かえってそこに偶然が見えてくる。その偶然の分からなさこそ、次へのステップだ。ウサギの穴を落ちるアリスのように、リンゴと私が同時に落ちていれば、リンゴだって宙に留まって見える。
恐らく必然化とは、論理的一貫性をもたせるといった意味で、Integrity的な営みだろう。一方そこに偶然が発生すれば、それは驚きにつながるから、Intimacyへの働きかけになるだろう。ではいかに偶然を必然的に取り入れるか? そこで玄田氏は「弱いつながり」の話を出した。すごく親しい「強いつながり」の相手では、共有されている知識が似ているため驚きがない。驚きは「弱いつながり」からこそもたらされる。こうして分からなさに触れたとき、新たな地平が拓かれる。
研究という視点から自省すれば、これは自分の専門にタコツボ的にのめり込んでばかりではいけない、ということになる。だが、親しみあるものばかりでなく色々な情報に自分をさらすといった意味では、アカデミックな業界に限られる話では決してない。およそあらゆる情報が手に入るインターネットでも、見たサイト、買った商品、検索した言葉に応じて近しいものばかりがサジェストされる。「弱いつながり」へ開かれる道はむしろ狭まっているかもしれない。
川添氏は、知識はつらいとき助けにならなければいけないと思うといった話から、その契機をIntimacyや偶然に求めていた。例えば病気の情報を知れば知るほど、人は不安になっていく。こうした情報がエセ科学も含め溢れているのが現代の不幸だが、藁にもすがる気持ちそのものは否定できないとき、IntegrityだけでなくIntimacyとしても伝わる医学知識や、体の不調と深刻な病気を必然的につなげるのではなく、別の可能性に開いて安心できるようになることこそ、助けになる知識だろう。先に挙げた働き方の例も、現状を必然と決めつけないことで、一部の抗ガン剤のように、定期的に短期の入院が必要な人びとの力になる変化をもたらすかもしれない。時に誤解されているが、フェミニズムは女性の役に立つだけではないのだ。
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中