さらに森田氏は、「マイナス1×マイナス1=プラス1」なんて、身体的な足すとか掛けるとかいった感覚から考えればナンセンスであり、ほとんど詩だと語っていた。例えば1袋6個入りのミカンを3袋といえば、感覚的つまりIntimacyとして6×3=18と分かる。だがマイナスにマイナスを掛けるとはそもそも想像しにくいし、しかも答えはプラスになるのだ。冒頭のアリスの計算も似ている。数学者でもあったルイス・キャロルは、記号的な操作が生みだす感覚的なナンセンスを、IntegrityとIntimacyのあいだのズレとして楽しんでいたのだろう。
私は文学研究が専門なので、Intimacyの復権のように聞くと、まさに人文学の出番だと言いたくなるべきなのだろうが、正直、そう楽観的にはなれない。いわゆる文系は非論理的だと言われがちだが、もちろん人文学も学問としてIntegrityの性格を高めてきた。その結果、やはりともするとIntimacyがなおざりにされ、いささか不都合な事態が生まれていると思われるからだ。
例えば私たちは、コンスタントに仕事ができることをほぼ無条件に「よいこと」だと考えている。だがこれは、出産で仕事を離脱する女性を無視しているし、もっと言えば、1カ月に1度ほど訪れる生理という女性の身体リズムも軽視している。週休2日制と自由に月8日休める制度では月間勤務日数がほぼ同じだが、前者を「自然」と捉える人が多いだろう。こういった無意識の男性原理を鮮やかに暴露したのが、フェミニズムの理論的成果だった。しかし、こうした考え方がIntegrityとして理論的に「完成」しすぎれば、もっぱら状況分析に使われる機械的操作へ近づき、Intimacyとしての理解へは至らない。IntegrityとIntimacyが手と手をとって与えたインパクトが薄れてしまう。
玄田氏は古典が今なお力をもつのは、IntegrityとIntimacyが絶妙なバランスで組み合わさっているからではないかと話していた。Intimacyだけでは抽象的な理論が組み立てられず、Integrityだけでは表面的にしか伝わらない。玄田氏はさらに、そのバランスを得るには、「みんな」という普遍的だが顔の見えない相手ではなく、「誰かひとり」という個別的だが明確な届け手を想定することが大事なのではないか、とも。今や世界的人気を誇る『ふしぎの国のアリス』も、もとはルイス・キャロルが知人の娘アリスを楽しませようと語ったお話だった。
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中