それでは、以上のような現象は歴史的文脈のなかでどのように位置づけられるだろうか。
一つは、フォーラムで河野氏が『天皇の近代』の読み方として示した、「動く君主/動かない君主」の枠組みが考えられる。同書を通読すると、いわば動きすぎる君主である光格天皇をいかにして封じ込めるかというところから、明治憲法(大日本帝国憲法)下で動かないことになっている立憲君主がどのように動いたかを論じた諸論考まで並んでいるというのである(原氏の論の場合には、天皇に加えて皇后・皇太后も射程に入ってくる)。研究会メンバーはそれぞれの関心に基づいて書いたのでそれは半ば偶然なのだが、たしかにそのような流れに見える。御厨氏によれば、研究会名を(「近代の天皇」ではなく)「天皇の近代」としたのは、天皇という存在には近代の枠に収まらない部分、近代と合わない部分があるのではないか、という着想からだった。「おことば」はまさにその視角を裏づけ、『天皇の近代』の論考も期せずしてそれに即応するかたちになった。
もう一つは、天皇・天皇制は変わらないなかで変わり続ける、変わることで継続する、といった視点である。これは研究会でも繰り返し論じられていた。フォーラムにおいて原氏は、天皇の「動き方」の今後に関する質問に対し、種別の増減や変化よりも、同じ名称の行為であっても実態や意味が変化するところに着目すべきかもしれないことを示唆した。例えば一口に天皇の「旅」といっても、どれほどの頻度で、どのようなときに、どこに行くのかによって、その意味合いは変わってくる。
ここでもわれわれは、平成の間に変容してきた天皇の「旅」を振り返り、次代はどうなるのかと思いめぐらせている。「おことば」によって喚起された議論である。『天皇の近代』の論文に書いたことだが、天皇の名で国民にメッセージを発すること自体は、明治時代以来おこなわれている。そうした天皇のコトバに天皇自身の意思が込められるというのも、昭和戦前期から見られる。しかしながら、天皇の問題提起を受けるようなかたちで天皇・天皇制のあり方について活発な議論が生じるというのは、新しい現象である。こうした、天皇と人々との間に循環的に何かが積み重なっていく様子、作用の双方向性は、単に国民の支持に支えられた天皇制ということを超えた、平成流の到達点なのかもしれない。
佐々木 雄一(ささき ゆういち)
首都大学東京助教
「天皇の近代」研究会メンバー
vol.101
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