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日本

研究会:可能性としての「日本」

2018年10月10日(水)
鷲田清一(京都市立芸術大学学長・可能性としての「日本」研究会代表)

SUNTORY FOUNDATION

選択された可能性、朧に芽を吹くも開花せずに終わった可能性、統制をすり抜けつつもやがて制止され、封殺されていった可能性......。それら諸可能性が蝟集し、折り重なり、せめぎあう場として歴史はある。

東日本大震災からほぼ一年、私たちはこれからの日本社会のあり方を構想するにあたってのリソースがどこにあるかを探るべく、共同研究《可能性としての「日本」》を立ち上げた。2012年4月のことである。メンバーは、詩人の佐々木幹郎さん、法政思想史家の山室信一さん、音楽学者の渡辺裕さん、そして私、哲学研究の鷲田清一である。

私たちが共有しようとした問題意識とは、日本の社会史のなかで未発のままに終わり、すでに忘却の淵に沈んでいる諸可能性を探り、それらを現代社会が直面する諸課題に応える可能性としてどう鍛えなおすことができるかを考えるということだった。

まず、この問題意識をどういう次元、どういう方向で展開してゆくかの議論を続けた。日本社会をアジア史、世界史的な地勢図のなかに置いて見ること。日本の社会・文化史を、思想史・政治史の文脈で語られるものに限定せずに、「思想」として語られることはないが民衆の身体に深く根づいてきた価値観、たとえば農業思想や民衆思想、地域社会の諸制度・行事にしみ込んだエートスなど、いってみれば「民の声」を掘り起こす作業に力点を置くこと。

議論を重ねるなかで、諸可能性がもっともダイナミックにせめぎあうその場として浮き立ってきたのが《大正期》というエポックであり、歴史社会であった。それはまさしく「大衆社会」「消費社会」といった現代生活の祖型が陰に陽に出現した時代であった。いうまでもなく、それは社会全体を震撼させたあの関東大震災(1923年)が起こった時代でもある。

以後4年間、いくつかの視軸を設定し、議論を進めた。「北方」や移民、第一次世界大戦といった世界史的歴史状況との関連、民衆をつなぐさまざまのメディア(ジャーナリズム、演劇運動、映画、邦楽・民謡・流行歌、美術展など)、新しく模索された言論と生業の場(結社、商店街、鎮守の森など)。徳丸吉彦(音楽学者)や佐佐木幸綱(歌人)といった「重鎮」から若手研究者・外国人研究者まで、研究会にお招きした多くのゲストの奥深い知見に学び、さらに続く2年間は、コア・メンバーが頭をつきあわせて議論をくり返した。あいだに被災地での「遺構」保存についての議論に参加させてもいただいた。

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