アステイオン

教育

自己肯定からの脱却──大学改革と人文社会科学のゆくえ──

2017年11月16日(木)
堀江秀史(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属EALAI 特任助教・2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー)

最後にホストの先生方から、過去の偉大な経済学者達を見ても、あるいはひと夏のインターンシップで成長する学生を見ても、社会の泥にまみれた上で、大学に戻ってその泥と汗を知へと還元する、その往還が、両者に良い影響を及ぼすことは間違いないだろうというまとめがあった。

おおよそ以上が当日の議論である。紙幅の都合で紹介できなかった話題が多くあり、また原稿としてまとめるにあたって、もとの発言に報告者の解釈が混じらざるを得なかったことをお断りしたい。もとより結論が出るような話ではないのだが、それでも、大学、人文社会科学、といった大きなテーマを囲んで、様々な立場から意見が交換され、それぞれがそれぞれを相対化し得た貴重な時間だったのではないか。「(大学の考え方では、)正しさは多数決では判断されない」という、議論の最中に発された言葉は心強かった。学問の自由の大切さ、実学とそれ以外の質的平等性については、この会に関わった全ての先生が当然理解されている。しかしその上で、自らの在り方という内向きの方向にも(人文社会科学のミッションの曖昧さ)、社会の中の大学という外向きの方向にも(大学の主体性と必要性)、大学は思いを致し反省しなければならない。大学が国や社会に対して、文系理系の調整や「社会的要請」の内実(あるいは偏り)について反省を求めるのと同様に。「利便性や実用性のある知を伝えるSophist(知っている者)としての責務を果たしつつ、自分は知らないという自覚のなかで、Philosopher(知ることを愛する者)として探求し、その愛し方を後世に伝えていくこと」(堂目教授)や、「やっぱり大学が、アカデミック・コミュニティが好きなんです。だから何とか守りたい。守りつつ攻めたい。本当は攻めたい。」(宇野教授)といった言葉が意味したのはそうしたことだっただろう。現状を呪うだけでは出口がないのは当然だ。冒頭に述べたような不安、そして諦めは、自分の殻に籠もることを意味する。そこから脱却する鍵が、今回の議論のなかに示されていた。

堀江 秀史(ほりえ ひでふみ)
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属EALAI 特任助教
2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー

PAGE TOP