こうした、国からの要請に対する現場(大学)からの意見を聞いた産業界の先生からは、「なぜ行政主導の改革を大学が容認するのか」と、大学の「主体性」が問われ、「議論がえらく内向きである。外から改革を迫られて仕方なくそれに反応する。現実として日本の大学の世界的なランクが下がっている現状を、誰が打破するかというところに目が向いていないように感じる」と続いた。これには、大学に身を置く(/置いてきた)先生方から、例えばこのほど国が募った「指定国立」を巡って、東京大学がそれに手を挙げつつも、自分たちはそれに選ばれるために何かするのではなく、東京大学自身の理念に基づいて改革をしてきたし、今後もすると述べて反論したこと(それでも結果としては採用された)や、しかしやはり、お金の問題は避けては通れないので、後ろにそれで養うべき人々を抱えた責任者には大きな反抗は示せないという現実がある、といった、生々しい攻防と苦悩が語られた。とはいえやはり、大学がいかにこの苦境を生き抜くかというサバイバルの話だけではなく、文と理とか、国立と私立とか、中等教育までと大学以降とかいった垣根を超えて、日本全体として、大学がどうなっていくべきかを考えねばならない、そしてそれを、大学自身が発信していかねばならない、といったような発言もあった。
あるいは、大学の「必要性」も問題となった。多くは東京大学法学部出身の官僚の一人が、「自分は大学から何も教えてもらっていない」と述べたというエピソードに対して、それは一部の階層の人々(毎年東大合格者を多く輩出する進学校出身者)の感覚であって、地方やそれ以外の高校から大学へ来る者達からすると、それまでと大学以降には大きな差がある、自分はむしろ大学でこそ人生を得た(加えて、官僚がそのような特殊なケースの人々で占められているとすれば、「社会的要請」の内実も怪しい、「要請」はどの層から掬うかによって異なるはず)、という反論があった。かと思えば、地方の高校生とそこへ研修にくる大学生に接するなかで、大学も大学院も、大人になるのを遅延する装置としてしか機能していないように感じるという意見も出た。後者の意見は、そうした現状を見るにつけ、一度大人(社会人)になってから大学に入り直すという選択肢が、日本にももっと出て来るべきだという提言にもつながった。「とりあえず大学」というのではなしに、大学に行かないような知、「運動知」とか「音楽知」を、人文社会科学が掬いあげて耕すこと、つまりそうした価値観を育むような研究が育つと素敵だというマスメディア界からの先生の意見もあった。
vol.101
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