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2017年5月12日の夕刻、東京は経団連会館の一室でひとつのフォーラムが開かれた。登壇者は、政治学者の苅部直(東京大学)と文化人類学者の渡辺靖(慶應義塾大学)。劇作家、山崎正和のオーラルヒストリー『舞台をまわす、舞台がまわる』(2017年)を土台に、主に日米両国の歴史や現状をふまえた活発な議論が行なわれた。掲げられた演題を「行動する知識人」という。
デモクラシーから大学まで万事に危機が叫ばれる昨今、なるほどたしかに気息奄々の様を呈しているのが「行動する知識人」なるものである。もちろん、反知性主義やインテリの無力といったはなしであれば、いつの世も変わらない見慣れた危機であろう。良識に逆らう知性への嫌悪や知識人の政治的挫折をめぐる悲喜劇も、ソクラテスや孔孟の昔からありふれたものである。とはいえ、目下の危難がこれらと事情を異にするのは、「行動する知識人」であるとはどういうことなのか、その自明性が疑われているからにほかならない。
行動するとひとくちに言っても、具体的に何を指すのかは多様である。街頭で政治的メッセージを叫ぶのはたしかに行動のひとつだが、そうした実践がいきすぎれば単なる「活動家activist」となろう。専門の知識や技術をいかして政府・官庁・企業で活躍するのもたしかに行動のひとつだが、それは局限された領域で「専門家expert」としての技術的有用性を発揮しているに過ぎないともいえる。もちろんだからといって、象牙の塔の権威や国論を導くオピニオン・リーダーになることが知識人の条件だと言えるわけもない。では、それらと区別された「知識人intellectual」とは何なのか。知識人/大衆図式がとうのむかしに失効した今、いくら目を凝らしても輪郭は定かでない。
知識人とは、知識人として行動するとは、いったいどういうことなのか。――この厄介な問いに、「境界に住む」ことだと答えたのが、1961年の丸山眞男だった。
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