香港よ、変わり果てたあなたを憂いて
株式市場で儲けを出した黎は81年に、アパレルのチェーン店・ジョルダーノを創業した。そしてジョルダーノの株を売ることを決め、90年に壹傳媒(ネクスト・デジタル)を設立し、週刊誌『壹週刊』を発刊した。
黎智英は「(89年の)天安門事件がなければ、メディアを設立していなかった」とさまざまな場面で話している。黎は、当時の李鵬(リー・ポン)首相に向けて公開書簡を出し、中国政府の対応を批判した。香港返還後、多くの香港メディアは中国寄りになったが、壹傳媒は一貫して共産党政権を強く批判し、自己検閲をしないと宣言してきた。
メディアで始まった「忖度」
95年の蘋果日報創業時の最初の社説「私たちは香港に属している」にはこう書いてある。
「私たちが作ろうとしているのは、香港人の新聞だ。香港の主権が返還されるまであと2年、97年以降の変化を恐れているか? そうだ。私たちは恐れている。しかし、私たちは恐怖に脅かされたくはない。私たちは悲観論に目をくらまされたくもない。私たちは前向きに、楽観的に未来に立ち向かわなければならない! 私たちは香港人なのだから!」
蘋果日報は最も多い時には1日の販売部数が50万部以上あり、5000人以上の従業員を抱えていた。しかし、中国市場を重視する企業は、中国・香港政府への批判を鮮明にする蘋果日報に広告を出さないようになった。2019年にニューヨーク・タイムズの取材を受けた黎は、広告の減少で毎年約4400万ドルの収益を失ったと述べている。昨年の販売部数は10万部未満にとどまり、従業員は800人以下に減っていた。
国安法の施行により、香港のメディアはますます萎縮せざるを得なくなっている。あるメディアでは若者の就職難という一般的な社会問題を扱う場合も、ネガティブな論調に対して上層部から再考を迫られることがあるという。そんななか、蘋果日報は独立した主張を展開する最後の民主派メディアとして、紙の部数は減ったが、デジタルの会員数を伸ばしていた。
それでも表現し続ける香港人
6月24日、蘋果日報にとって最後の日。発行部数が約8万部の同紙はこの日、100万部を印刷することに決めた。ニューススタンドやコンビニに新聞がうず高く積み上げられ、前日の夜中から長い列をなして待っていた人々に、最後の蘋果日報が販売された。