地下鉄サリン25年 オウムと麻原の「死」で日本は救われたか(森達也)
人は複雑な存在だ。単細胞生物でもなければ物理現象とも違う。他者の内面や人間性について、これほど強硬に断定できる理由が僕には分からない。補足するが、刑事司法改革など他のイシューに対して、江川はとても聡明な視点を提示する。しかしオウムや麻原が方程式に代入されると、明らかにギアが変わる。
ただ確かに、治療によって回復する可能性は相当に低いだろうと僕も思っていた。一審終了後に二審弁護団の依頼で麻原に接見した6人の精神科医は詐病の可能性を否定した上で、昏迷状態であれば適切な治療や環境を変えることで劇的に回復する場合があるなどと診断した意見書を公開した。だが会を設立した時点で、それから10年以上も放置されている。決して楽観的には考えていなかった。
でも刑事裁判の基本はデュープロセス(適正手続き)だ。「たぶん治らない」「麻原は自発的に真実をしゃべるような男ではない」。これはどちらも予測だ。可能性を理由に手続きを省略すべきではない。
加害者の家族の苦しみは
ナチス最後の戦犯と呼ばれたアドルフ・アイヒマンは、自らの法廷でホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に加担した理由を「命令に従っただけ」としか答えなかった。それは世界が期待した証言ではないし、「自発的に真実を」語ったわけでもない。
しかしこのとき傍聴席にいた哲学者のハンナ・アーレントは、この証言をキーワードに「凡庸な悪」という概念を想起した。そしてアーレントのアイヒマンに対する考察と示唆は、特定の集団を世界から抹殺するというあまりに理不尽で凶悪なナチスの負の情熱を解明する上で、1つの(そして極めて重要な)補助線として歴史に残されている。
邪悪で狂暴だから悪事をなすのではない。集団の一部になって個の思考や煩悶をやめたとき、人は壮大な悪事をなす場合があるのだ。これに気付いたとき、惨劇や事件は歴史的教訓の骨格を獲得し、発生時に喧伝された特異性だけではなく、後世に残る普遍性を示すことになる。それは誰のためか。オウムや麻原のためではない。僕たちのためだ。
ただし補助線は補助線だ。もしもヒトラーが自害していなければ、法廷でその証言を聞けたはずだ。しかし現実にはニュルンベルク国際軍事裁判は、ヒトラー不在のままで進められた。最後のとどめを刺し切れなかった。だからこそ今もネオナチやヒトラー崇拝的な思想は世界にくすぶり続け、ホロコーストやナチズムに対して歴史修正的な史観や優生思想が亡霊のように立ち現れる。
麻原は生きていた。ならば治療して語らせるべきだった。大量殺戮の指示をあなたは本当に下したのか。その動機は何か。日本を征服するなどと本気で考えていたのか。あるいは言葉の食い違いがあったのか。あなたの直接的な指示を聞いたのは刺殺された村井秀夫幹部だけだ。彼にあなたはどのように伝えたのか。被害者や遺族に対しての言葉はないのか。一緒に処刑される弟子たちに対して今は何を思うのか。