失われた20年に「起きなかったこと」に驚く──平成は日本を鍛え上げた時代
<バブルの絶頂から奈落の底に突き落とされ、長い試練の時期を経て現実に立ち向かう底力がついた――。1989年から本誌にコラムを書き始めた経済評論家の述懐>
※ニューズウィーク日本版SPECIAL ISSUE「ニューズウィークが見た『平成』1989-2019」
(この記事は「ニューズウィークが見た『平成』1989-2019」収録の書き下ろしコラムの1本)
夜空を見上げれば、そこに星座があるように、過去を振り返れば、そこにはストーリーがある。
ある時代を振り返ると、当時は気付かなかったパターンが見えてくる。平成が終わろうとしている今、筆者の頭の中でこの時代ははっきりとした形を取っている。それは日経平均株価のチャートだ。その後の経済、社会、政治の動きを先読みする市場のアンテナの精度には驚くばかりだ。
偶然にも筆者は平成の初め、1989年3月から本誌にコラムを書き始めた。当時はバブル経済の最後かつ、最も浮かれた時期で、熱狂的な高揚感が日本を覆っていた。筆者もささやかながら時代の気分を味わった。倉庫を改造したディスコ「ジュリアナ東京」で踊り、大蔵省接待事件の舞台となった「ノーパンしゃぶしゃぶ」の店でも食事をした。
1989年の日本の株式市場の規模は時価総額で世界の40%超。ばかばかしいほどの過剰評価だが、バブルは心理が生み出すものでもある。国内外で日本は「ナンバーワン」と持ち上げられ、米誌ビジネスウィークは2000年までに日本は経済規模でアメリカを抜くと予想した。参考までに言えば、今や日本株の時価総額は世界の8%程度にすぎない。
筆者が本誌に書いた最初の2本のコラムはリクルート事件を扱ったものだった。そして1990年3月15日号に掲載された3本目のコラムのタイトルは『「日本流錬金術」に赤信号』。この頃にはバブルは崩壊寸前で、不動産価格の暴落が壊滅的な結果をもたらすことは目に見えていた。筆者は悲観的なオブザーバーだったが、それでも日本経済が「正常化」にこれほど手間取るとは夢にも思わなかった。
「失われた20年」はこの時期を必ずしも正確に言い表す言葉ではない。バブル崩壊後の20年にはいろいろなことが起きた。2度の金融危機、増え続ける企業の倒産、非正規雇用の増加、オウム事件、阪神淡路大震災。「一億総中流社会」や終身雇用の神話が崩れ、浮かれ気分に代わって閉塞感が日本を覆った。この間、入れ代わり立ち代わりマイクを握るカラオケ店の客のように、首相がめまぐるしく交代した。
行き過ぎた幻滅は幻想に似ている。いずれも現実を無視して、ムードに浸っているだけだ。いま振り返れば、失われた20年に「起きなかったこと」のほうに驚く。日本は保護主義に走らず、それどころか徐々に外国人を受け入れ始めた。ポピュリズムの嵐が吹き荒れることも、フランスの「黄色いベスト」運動のような暴力的なデモが広がることもなかった。企業は少しずつ雇用、設備、債務の「3つの過剰」を解消し、利益率が上昇し始めた。企業も個人もより現実的になり、危機に強くなった。
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