ブラジルと日本に言っておきたい、いくつかの事柄
■もう少し手厚く案内をしてほしい
ブラジルでは、スタジアムへの行き帰りの案内がほとんどなかった。リオデジャネイロのマラカナンのように、メトロの駅が近くにあるスタジアムはいい。でもそんな便利なスタジアムは、僕が行ったなかではマラカナンだけだった。
残りのスタジアムは、行くときも自分でバスの発着所などを調べないといけなかった。しかも試合が終わったあと、どこへ行けば何があるのかが、ほとんどわからない。
最悪だったのは日本の第3戦が行われたクイアバのスタジアムだ。来るときは街の中心部から出ているシャトルバスを使ったので、スタジアムからの帰りもそのバスに乗りたかったのだが、どこから出ているのかまったくわからない。とりあえず人の流れについていき、途中で係員(だと思う)に確認もしたのだけど、乗り場はいっこうにわからない。最後には奇跡的にタクシーがつかまって宿に帰ることができたが、まじめな話、一時は遭難するかと思った。
けれども考えてみたら、スタジアムからバス乗り場までていねいに案内をしている国など、日本のほかにはなかった気もする。フランスでもドイツでもイングランドでも、人の流れについていって、なんとか移動していた記憶がある。
こういうときに外国の大ざっぱさが目につくのは、このあたりが日本人の超得意科目だからかもしれない。2002年の日韓共催ワールドカップのとき、イングランドのサポーターの間に「奇跡のバス」という言葉が生まれた。イングランドがデンマークと戦った新潟のシャトルバスを指したものだ。なぜ奇跡と呼ばれたか。それは駅前に並んでいるのが乗客ではなく、バスのほうだったからだ。
次に日本について。おもにメディア報道の話だ。
■サッカーの成績を「国民性」のせいにするな
日本に帰ってきて代表が大会を去った翌日の新聞を読んでいたら、やはりこんな文が見つかった。「代表チームはその国の民族性や価値観、文化、社会を映し出す」(6月26日、朝日新聞)。まっとうなことを言っているように聞こえるが、この手の議論は眉つばものだ。
日本代表が勝てば「持ち前の組織力がものをいった」と称賛し、負ければ「日本人はまだ個の力が足りない」と批判する。日本のメディアはサッカーについて、そんな報道を繰り返してきた。だがこの議論が正しいなら、サッカーの試合に勝っても負けても、その理由は「日本人だから」ということになる。サッカーという複雑なスポーツを語り合う面白さは、そこで立ち消えになってしまう。
選手が替わり、世代が交代し、監督が(国籍まで)替わっても、サッカー日本代表は日本人の「文化」に縛られるのだろうか。そのときの文化とは、いったい何だろう。