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30年後に今日の雑誌をひらく人がいるとしたら、そこからどんな気配を感じとるだろう。
『アステイオン』の100号では、多くの執筆者が同誌の創刊号を実際に手に取り、雑誌の歩みと役割について論じている。
特に印象的だったのは、東京・赤坂のサントリーホールで行なわれた座談会(片山杜秀+三浦雅士+田所正幸「1986年から振り返る」)だ。サントリーホールも『アステイオン』と同じ1986年に出発したという。
「21世紀の首都圏はこれでは "がらんどう" みたいなものです」。閉館や改修による休業が相次ぐ東京近辺のコンサートホール・劇場をめぐる状況を受け、片山さんはこう指摘する。
三浦さんは、民主主義と劇場は双子である。その奥行を捉える感性が失われている――と、ジャーナリズムの機能不全を嘆く。
変わりゆく文化の「ハコ」は、ホールだけではない。議論のうつわとしての雑誌の未来はどこにあるのか。
昨年12月、私が編集長を務める「世界」は誌面をリニューアルした。まずは自分自身が雑誌を身近に感じること。それが出発点だった。
内側と外側から雑誌を見直すプロセスのなか、「論壇誌のこれから」という問いにも直面した。「論壇がある」と実感したことがない。それはもうひとつの出発点だった。
同じA5版ながら年2回刊行で、編集委員会制の『アステイオン』と、月刊誌の「世界」。異なるなりたちをもつ媒体とはいえ、「『言論のアリーナ』としての試み」特集からは、両者が交差する点も浮かび上がる。
ともに答えのない「雑誌の未来」を探る立場から考えたことをここに書いてみたい。
『アステイオン』の個性のひとつはその国際色だ。創刊号での粕谷一希編集長の後記には、「日本人が自らの国際的な役割を自覚し、独自のメッセージを発信することこそ急務」であり、そのために「海外のジャーナリズムと具体的に提携し対話を開始すること」とある。
具体的な提携とあるとおり、海外から複数の編集委員を迎え入れ(2004年まで続いたという)、山崎正和+ダニエル・ベル対談が皮切りとなった「ワールド・ダイアローグ」など、長尺の対談記事も多い。
形式的な交流にも専門の学問領域にもとどまらない、継続的な対話を明確に志していた。これこそ雑誌編集の夢だと思う。
貿易摩擦が深刻化し、日本人の「鈍感さ」「過剰な自信」が論じられた、インターネット以前の時代。そこから国際情勢に関する情報は飛躍的に多様に、膨大になったが、ジャーナリズムの場での対話は豊かになっただろうか。
水村美苗さんが『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(筑摩書房)で指摘するように、「普遍語」としての英語の地位がいっそう高まるなか、海外の知見を日本語でじっくり咀嚼できる環境は重要で、この点で雑誌の強みを生かすチャンスは今もあるはずだ。
他方で、国際的な言論における欧米優位を踏まえ、それにとらわれない世界地図を展開していくことも、各誌の腕の見せどころかもしれない。
vol.100
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